Ivan Franko National University of L’viv (Ukraine) GJO Activity Report / 活動日誌

2020年5月 活動日誌 / May 2020 Activity Report

2020年5月31日 / May 31, 2020
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / HARA Masaki

【大学の様子】

リヴィウ大学は、5月現在も引き続き閉鎖中です。試験や教授会等も、原則として遠隔で実施されています。事務関係等、一部の必要な業務は職員が決められた日時に出勤して行われている模様です。

授業期間はすでに終わり、6月に「実習」と呼ばれる科目(6月後半に授業、9月に課題提出)が遠隔で行われたのち、実質的に夏休みとなります。したがって、特に大学を今開く必要性は低いので、6月以降も当面、このまま閉鎖が継続されるものと推測されます。

9月からの新年度の授業については、まだ教育省から正式な通達もなく、不透明な状況のままです。ただ、大人数の授業については遠隔での実施が決定しています。それ以外の授業については未定です。また、留学生受け入れの可否も、現在教育省が検討中で、リヴィウ大学も国の決定に従って方針を決めることになっています。

【新緑のリヴィウ】

5月はライラックの季節です。街角や家々の庭先で、紫丁香花(ムラサキハシドイ)の和名の通り、薄紫色の花を咲かせています。先月末頃からひと月ほど目を楽しませくれました。

リヴィウ市では、一戸建ての家よりも集合住宅に住んでいる人の方が多いように思われます。そうなりますと個人の庭がないことが多いのですが、人々は家の前の歩道の植え込みなど近所の土のあるところに花壇を作って楽しんでいるようです。今の季節は、アヤメ(ジャーマンアイリス)やスズランが人気のようです。シダを植えているところもありました。

木立のあるところでは、鳥たちが集まってきます。求愛の時期らしく、毎日クロウタドリが張りがあってよく通る歌声を聞かせてくれます。ツグミの仲間で、ヒヨドリぐらいの大きさです。公園の樹の下では、くちばしと目の周りが黄色く全身が真っ黒なオスが、灰色がかった羽色のメスをちょんちょんと追いかけています。

オオガラス、ニシコクマルガラス、ミヤマガラス、カササギやイエスズメ、コキジバト、カワラバトなどは1年中いますが、冬の羽根もみすぼらしくいかにも元気のない姿とは見違えます。こちらのカラスたちは静かです。タンポポの綿毛の残る草叢では、まだ小さい雀の子が遊んでいます。シジュウカラの仲間やメジロ(もしくはウグイス)の仲間も綺麗な歌声を聞かせてくれます。

モリバトの姿も見られます。ウクライナでは近年留鳥となったとされますが、リヴィウでは冬は見ない気がします。ほっそりとした体格のやや大型のハトで、頭部が青磁色をしていて首に白い模様があり、どことなくほかの街角のハトたちと違うのがわかります。

夕方になると巣に帰るらしいツバメが賑やかに飛び回りますが、よく見るとユリカモメも飛んでいます。リヴィウ市にカモメがいることは、どれほど知られたことでしょうか。地上に降りたところは、リヴィウ市内では見たことがありません。

ときどき聞こえる木を叩く音の正体は、なんのキツツキかと思いましたが、アカゲラを見かけました。

Ukraine2005(1)

ライラック
歌を歌うクロウタドリ / 庭に遊びに来たアカゲラ

【検疫措置】

新型コロナウイルスの流行拡大阻止策としての検疫措置は、5月11日までの予定が22日までに、さらに6月22日までに延長されました。同時に、段階的に規制事項が緩和されました。しかし、リヴィウ州は、主にリヴィウ市内の感染者数増加が原因で規制緩和基準を満たせなかったため、緩和はそれぞれ15日および18日、29日に延長されました。その日に実際に緩和基準を満たしたかどうかは存じませんが、いずれにせよ規制は緩和されてレストランや喫茶店(ともに店外のテラス席など、店舗入口で受け渡しするお持ち帰り、配達などのみ)、美容院・床屋やエステ、ショッピングモールなどの営業が再開されました。

おもしろいのは、それらの場所ではマスク着用が義務とされていることで、マスクを着用したまま飲食したり、散髪してマスクが髪の毛だらけになったりしているところを想像すると、いささかシュールな気がします。どういう状況を想定した緩和なのでしょうか。

現実には、リヴィウ市民は4月末から「自主的に」検疫措置を終了している人が多いので、そういうジレンマに陥る人は少数派なのかもしれません。場所や日によりますが、道行く人の約9割は義務であるマスク着用を自主的に中止しています。人とのあいだに距離を保ちましょうというのも、多くの人は気にせず接近してきます。自分は感染しない自信があるのか、自分が他人にうつしても関係ないと考えているのかわかりませんが、気にはなるが対応すべきは政府や他人であり、自分では何もしたくないということなのかもしれません。

リヴィウ州が全国で1日の新規感染者数トップを記録するなどして、検疫措置の緩和基準を満たすことができない状態が続いているのは、特に不思議ではありません。

病院は一般的な診察を行う外科は一部受け付けていますが、専門医は皆休業しているので、何かあると困ることになります。交通機関の停止は、車のない住民にとって問題です。

なお、大学入試はひと月ずらされると発表がありました。

【国際協力】

今月もウクライナの航空機は国際的に活躍しており、特に大型輸送機An-225「ムリーヤ」、An-124「ルスラーン」、An-22「アンテーイ」が中国からウクライナ、アメリカ合衆国、カナダなどへの輸送で活躍しました。なかでも、北米大陸へ医療品を輸送しているAn-225は、中国からアンカレッジ経由でモンレアル(モントリオール)やトロントへ飛行するに際し、テクニカルランディング(給油のための寄港)で中部国際空港(セントレア)へ立ち寄ることがしばしばあるようです。日本の皆さんもお目にかかった人がいるかもしれません。

今月、リヴィウ国際空港ではAn-26による航空郵便がフランクフルト空港へ就航し、これによりウクライナ郵便は「日本への国際郵便がスムーズになる」と発表しています。ウクライナ郵便は検疫措置の下、新しいネットワーク構築を進めているそうです。今のところ日本とウクライナ間の郵便(航空便とEMS)は停止したままですが、今後はキーウ経由でなくフランクフルトからリヴィウへ直接送られるようになるのでしょうか。もしそうなれば、配達日数が短縮されるかもしれません。

【参考リンク】


2020年4月 活動日誌 / April 2020 Activity Report

2020年4月30日 / April 30, 2020
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / HARA Masaki

【春のリヴィウ / Spring in Lviv】
 暖かくなり元気になった野鳥がたくさん現れました。渡り鳥のアマツバメが空高く舞っています。翼の形からウクライナ語では「鎌翼鳥」と呼ばれます。木立では、数種のハト、カササギ、サヨナキドリ、ツグミやムクドリ、シジュウカラやウグイスの仲間、種類を知らない鳥たちで賑わっています。ちなみに、ハトの鳴き方も日本と違います。どうも、「オカーサン! オカーサン!」とか「オトーサンガー!」と鳴いているようです。
 普段人がいると木の上の方にいてなかなか姿が見えないのが、外出自粛で人が少ないので、下の枝や地面にも降りてくるようになりました。
The warming weather awakened and lured out a lot of wild birds. Migratory swallows have been flying high in the sky. Because of the shape of their wings, swallows are called “sickle-winged birds” in Ukrainian. The grove is teeming with many kinds of birds: pigeons of different types, magpies, halfbeaks, thrushes, starlings, tits, warblers, and a few birds whose names I don’t know. By the way, did you know pigeons in Ukraine hoot differently from those in Japan? In Japan they sound like they’re saying “Okaasan! Okaasan!” (‘mother’) or “Otoosan-ga!” (‘father [is])’).
Usually, these birds are in the upper part of a tree when there are people around, and it is hard to see them. But since so few people are out and about, with most people taking shelter at home, these feathered friends have often been coming down to the lower branches and the ground.

【リヴィウ大学 / The National University of Lviv】
 4月4日、尊敬されたリヴィウ大学前学長イワーン・ワカルチューク教授(Іван Вакарчук, 1947–2020)が永眠されました。ワカルチューク先生は、東洋学科に日本語専攻を設置する際にも前向きに取り組んで下さった先生で、本学とリヴィウ大学の協定もその延長線上にあると言えます。ご冥福をお祈り致します。
On April 4, 2020, the former president of the Ivan Franko National University of Lviv, Professor Ivan Vakarchuk (Chapter 1947 – 2020), passed away. Professor Vakarchuk worked enthusiastically toward the establishment of the Japanese language course in the Department of Oriental Studies. One could say that the academic exchange agreement with the Tokyo University of Foreign Studies came about as an extension of that. May his soul rest in peace.

【検疫措置 / Quarantine Measures】
 新型コロナウイルスの流行拡大を阻止するための検疫措置(карантин)の期限は、当初予定された4月3日から24日に延長され、さらに5月11日まで再延長されました。
 内容も強化されました。1日付で以下の諸条項が定められました(厳密を期すため日本国外務省の翻訳を引用。出典は [https://www.anzen.mofa.go.jp/od/ryojiMail.html?countryCd=0380] 原稿作成日閲覧)。6日から全国で実施されました。
The quarantine implemented to prevent the spread of the new coronavirus was originally scheduled to end on April 3, but has since been extended twice, first until April 24 and then until May 11.
The following rules were also added to the quarantine as of April 1, which came into effect on April 6.
[https://www.anzen.mofa.go.jp/od/ryojiMail.html?countryCd=0380]

・マスクを着用せずに公共の場所に滞在すること
・2名を超える人数でまとまって移動すること(2名は可。業務上必要な場合,子供への同伴時を除く)
・16歳未満〔※3日付で「14歳未満」に変更〕の子が成人の同伴なしに公共の場所に滞在すること
・公園,広場,休憩所,森林公園,沿岸地区を訪問すること(1人でペットの散歩をする場合,業務上必要な場合を除く)。
・スポーツ広場,子供用広場を訪問すること
・10名を超える人が参加する大規模行事を開催すること(国家機関や地方自治体等の業務に必要な行事を除く)
The following are actions are now prohibited:
1) Not wearing a face mask in public spaces.
2) Going out as a group of more than two people (except when required for business reasons or when accompanying minors).
3) For children under the age of 16 [“14” since April 3] to stay in public places without adult supervision.
4) Visiting parks, public squares, rest areas, forest parks, and coastal areas (except for walking the dog alone or when required for business reasons).
5) Visiting sports fields or children’s parks.
6) Hosting a large-scale event that draws more than ten people (except when required by state institutions or the local government for operational reasons).

 その後、一部条項が修正され、罰則も定められました(上記リンク先に記載あり)。
さて、この措置によりリヴィウ市民の生活はどう変わったでしょうか?
The regulations have since been modified to include penalties (as described in the above link).
Now, how have these new rules changed the lives of the Lviv locals?

【マスクの今どき着用法 / How to Wear Face Masks – The Latest Trends】
 ウクライナではこれまでマスクを着用する習慣はなく、マスクをしているとよほど重症なのかと思われてバスで座席を譲られるほどだったのですが、着用義務化により普通に使用できるようになりました。店舗や乗り物には、マスクなしで入ることはできません。店舗の入り口では人数制限や検温があります(並んでいても割とすぐ入れます)。
 当初、マスクは品薄になりましたが、しばらくするとどこでも手に入るようになりました。これまで薬局で売っていましたが、スーパーのレジでも売られるようになりました。マスクが枯渇しないのは、供給量の増加だけでなく、着用しない人がいるのと、こまめに替えないのとが理由ではないかという気もしますが、さて実際はどうでしょうか。今流行りのマスクの着用法を見てみましょう。
In Ukraine, people didn’t have the habit of wearing face masks. Wearing masks meant they were seriously ill; people often even gave up their seats on buses if they saw someone wearing a face mask. However, it’s now become part of their daily lives. You cannot enter stores or take public transportation without wearing a mask. Stores limit the number of customers and take customers’ temperatures at the entrance. (Even when there is a line, you don’t have to wait too long before entering.)
Masks were in short supply at first, but after a while, they became available everywhere. They used to be sold at pharmacies, but now they are also found at supermarkets. I have a feeling that the reason masks haven’t run out is not only because of the increase in supply but also because there are people who don’t wear them and people who don’t change them frequently. Now let’s take a look at the latest face mask trends.

 其の一、マスクで口を塞ぐので、呼吸に支障を来さないよう鼻は出しておく。
 其の二、マスクは顎に装着し、何かとぶつけやすい顎を保護する。しっかり呼吸ができるよう、鼻と口は外に出しておく。
 其の三、マスクと言えば風邪予防。マスクは喉に装着し、扁桃腺が腫れるのを防止する。鼻と口は外に出して、新鮮な酸素を十分に吸入できるようにしておく。
 其の四、何も悪いことはしていないのだから、マスクで顔を隠す必要などない。顔を出して堂々と歩けばよい。
 鼻と口を塞ぐクラシックな着用方法は、流行遅れのようです。
(※着用方法の理由と目的は個人の憶測です。)
The first trend is to cover your mouth with a mask, and keep your nose out so as not to interfere with your breathing.
The second trend is to wear a mask on your chin to protect it from bumping into things. This means leaving your nose and mouth out so you can breathe freely.
The third trend is to prevent colds by protecting your throat. This means putting a mask on your throat and preventing your tonsils from swelling. The nose and mouth should be exposed to secure an adequate supply of fresh oxygen.
The fourth trend? You don’t have to cover your face with a mask because you didn’t do anything wrong. You can go out and walk with your chin up.
The classic way to cover the nose and mouth seems to be out of fashion.
(* The reasons and purposes behind the ways of wearing a mask are personal speculations.)

【自宅で復活祭 / Easter at Home】
 今年は4月にキリスト教の大祭日である復活祭がありました(西方教会は12日、東方教会は19日)。通常ですと教会堂などで多くの宗教行事が行われます。しかし、今年は大統領も懸念したように、礼拝堂のような狭い空間に大勢の人が集まることは避けるべきことなので、ウクライナ政府は各宗教団体に検疫措置への協力を働き掛けました。
 それに対し、ウクライナの二大宗派であるウクライナ正教会とウクライナ・グレコ(ギリシャ)=カトリック教会、ほかの少数派教会(ローマ=カトリック教会やプロテスタント等)は、信徒に各自が儀式を行うことを許可し、聖堂内での儀式の様子をネット配信して、信徒に自宅待機を呼び掛けました。
This year’s Easter was in April, on the 12th for the Western Church and the 19th for the Eastern Church. Usually, many religious events are held in churches. However, as the President previously stated, large gatherings in closed spaces like chapels should be avoided this year; therefore, the Ukrainian government appealed to religious groups for cooperation in line with the quarantine measures.
In response, the two largest churches in Ukraine, the Orthodox Church of Ukraine, the Ukrainian Greek Catholic Church, and other minority churches (Roman Catholic Churches, Protestants, etc.), allowed their followers to officiate Mass at their own home, urging them to stay home. The Easter Masses at churches were live-streamed online.

 一方、一定の勢力を保持しているモスクワ総主教庁ウクライナ正教会(実質的にロシア正教会のウクライナ支部であると看做されています)は、教会へ集まるよう信徒に繰り返し呼び掛けました。実際、新型コロナウイルス感染拡大が最も深刻な地域であるチェルニウツィーをはじめ各地で聖堂に大勢の人が集結するという事態が生じました。特に、この宗派がレンタルしているキーウ洞窟大修道院とポチャーイウ大修道院では感染の爆発が発生し、前者では全聖職者が感染したという情報まで現れました(それは誤報で、というのも、その後も同施設での感染者は増加し続けていますので、その時点ではまだ「全員」ではなかったようです)。高位聖職者の感染も相次ぎ、教会トップも感染したという報道も出ました(今のところ否定)。モスクワ総主教庁ウクライナ正教会は、ウクライナとロシア及びその支援を受ける親露派テロリストとの戦いにおいてもロシア側を支援するなど、これまでウクライナに対する敵対的な姿勢で知られてきましたが、今回の行動は誰の利益なのでしょうか?
 なお、問題が報ぜられていない施設の方が多いですから、皆が皆同じではないと思います。Meanwhile, the Ukrainian Orthodox Church of the Moscow Patriarchate, which maintains a certain amount of power and is deemed as effectively the Ukrainian branch of the Russian Orthodox Church, has repeatedly encouraged its followers to gather at churches. In response to this, a large number of people gathered in churches in many areas including Chernivtsi, where the spread of the new coronavirus was most serious. In particular, there were mass infections at the Kyiv Pecher’s Lavra and Pochaiv Lavra, which the abovementioned Church use for services. Some news reports even said that all priests in the former were infected (this later turned out to be a false report: the number of infections at the church is still on the rise, which means not “everyone” was infected at the time). There have also been reports of a spate of infections among dignitaries including the Church leaders (denied by the Church at the moment). The Ukrainian Orthodox Church of the Moscow Patriarchate has been known for its hostile attitude toward Ukraine; for example, they supported Russia during the conflicts between Ukraine and Russia and pro-Russian terrorists supported by Russia. I wonder who will gain from their recent actions.
To be clear, most of the churches have reported no problems, and not all the members of the Ukrainian Orthodox Church of the Moscow Patriarchate are uncooperative with the quarantine measures.

【取り締まり / Crackdown】
 市中でマスクの非着用(4月半ばの時点で1割程度、その後増加)、大人数の集合など、明らかな違反行為が見られます。取り締まりは行われているようですが、人々のルールの独自解釈は止めどないので、追いつかないようです。
 ただ、厳重に取り締まりを行うのがよいのか、もう少し市民の自主性に任せて放置した方がよいのか、そこは難しいと思われます。警察による強権的な取り締まりは、ウクライナの場合、かつてのソ連の警察を思い起こさせます。ウクライナの警察は、ソ連時代からの悪弊から脱却する目的で近年(前政権時代)、新体制に移行したばかりです。ソ連時代への逆行は、国民に嫌な印象を引き起こすでしょう。
On the streets, you see many people breaching the quarantine regulations, such as not wearing masks (around 10% of passersby as of mid-April, which has since increased) and gatherings of a large number of people. Police seem to be patrolling, but there are simply too many offenses. I suppose there is no stopping people from interpreting the rules in their own ways.
 However, I think it is difficult to decide whether it is better to set strict restrictions or to leave it to the discretion of citizens. Any crackdowns by the police would remind Ukrainians of the Soviet police. The Ukrainian police were only reorganized recently under the previous administration in order to break free from corrupt practices committed during the Soviet era. Any sign of return to the Soviet era would give the public a bad impression.

 ところで、4月も半ばを過ぎると、徐々に検疫措置の解除に向けた談話が出始めました。4月末には大統領や政府からもそうした話題が明言されるようになりましたが、日本では新規感染者が25人も見つかった、これは緊急事態だ、と記者会見が北海道で開かれている頃でした(都知事もしばしば会見を開いていました)。ウクライナでは毎日報道も減った増えたと一喜一憂しているのですが、だいたい3~600人以上の新規感染者が見つかっています(ウクライナの全国人口は関東地方とほぼ同じ)。安定してきたのでそろそろ検疫措置の緩和を検討する時期になったそうです。他の欧州諸国もこんな感じの状況で検疫措置の弱化を進めていますが、やはり国が違うと物事の感じ方もだいぶ違うのかなと思いました。
Around mid-April, talks about lifting quarantine measures began. At the end of April, the President and the government began to address these issues. Around the same time in Japan, the Hokkaido governor held a press conference regarding the 25 new cases of coronavirus infections confirmed in Hokkaido, while the Tokyo governor also often held press conferences on the situation in the capital city. In Ukraine, people are oscillating between optimism and pessimism depending on the number of infections that day. The reported number of infections in Ukraine is around 300 to 600 with the national population similar to that of Kanto region. The officials say with the situation stabilized, it’s time to consider easing quarantine measures. Other European countries are also weakening quarantine measures under similar circumstances. For me this is a reminder that people of different cultures view things differently.

【国際協力 / International Cooperation】
 日本政府は、臨床結果の共有を条件に、ウクライナを含む20ヶ国への「アビガン」の無償提供を決定しました。ウクライナ外相が感謝のコメントを出しています。
 一方、ウクライナも輸送や資金援助(対アルバニア)、医療従事者の派遣(対イタリア)など、可能な分野で国際貢献を行っています。特に、輸送分野での貢献は絶大と言えるでしょう。ウクライナは世界最大の航空機An-225「ムリーヤ」を保有することで知られますが、今月から同機をはじめとする大型輸送機を総動員して、長距離大量輸送を開始しました。この輸送の一部はNATOとの協力活動である戦略的空輸国際ソリューション(SALIS)プログラムの一環で行われていて、ウクライナとNATOとの関係強化という目標もあります。
The Japanese government has decided to provide “Avigan” free of charge to 20 countries, including Ukraine, on the condition that the clinical results are shared. The Ukrainian Foreign Minister has expressed his gratitude.
Meanwhile, Ukraine is making international contributions in every possible area, including transportation, financial assistance (to Albania), and sending medical personnel (to Italy). In particular, its contributions to the transportation sector have been significant. Ukraine, which is well known for possessing the world’s largest aircraft, the An -225 “Mriya,” has launched a long-range mass transit operation using all of its large transport aircraft this month. Part of this transport is in connection with the Strategic Airlift International Solution (SALIS) program, which is a partnership with NATO, aiming to strengthen Ukraine’s relationship with NATO.

 ウクライナの貨物航空会社であるアントーノウ航空の保有する大型輸送機An-225「ムリーヤ」、An-124-100/-100M「ルスラーン」、An-22A「アンテーイ」が、中国とヨーロッパ、北米大陸とのあいだを飛行し、各国へ医療物資の輸送を行っています。おもしろいのはポーランドで、今回初めてAn-225がワルシャワ空港に飛来したのですが、「この世界最大の飛行機を見たいお気持はわかりますが、感染拡大防止のため、空港に集まることはやめて下さい」と注意が出たそうです。そのため、見たい人は空港の外に集まっていたようですが……。
The large cargo planes An -225 “Mriya,” An-124-100/-100M “Ruslan,” and An-22A “Antei,” owned by the Ukrainian cargo Antonov Airlines, fly between China, Europe, and North America to transport medical supplies to various countries. Interestingly, in Poland, when the An-225 flew into Warsaw for the first time, they warned people that “we understand that you would like to see the world’s largest airplane, but please do not gather at the airport to prevent the spread of infection”, which consequently attracted a crowd of people outside the airport……

 An-225はウクライナのO・K・アントーノウ記念航空科学技術複合(現在の国営企業「アントーノウ」)で開発された航空機で、航空機としては比肩するもののない250トンの最大積載量を誇ります。An-225の原型である大型輸送機An-124は150トン、「ジャンボジェット」ことボーイング747-8F貨物機は147.6トン、一般的な長距離旅客機と同サイズの貨物機ボーイング777Fは103.9トン、横田基地にも配備されている米空軍の輸送機C-17は78トンとのことですから、いかに破格かがわかります。最大積載量とは最小限の燃料を搭載して目一杯貨物を積んだ状態のことを言うので、実際には1万キロメートル近い長距離を飛行するため大量の燃料を搭載した上で機体を軽くする必要もあるため、中国から欧米まで一度に運べる現実的な量は100トン程度ではないかと思われますが(途中給油する場合はこの限りでない)、いずれにせよ同じ量を高速で輸送できる輸送手段は世界にほかに存在しません(もちろん、船便はもっとたくさん運べますが、輸送速度で比べ物になりません)。
Developed in the Aeronautical Scientific-Technical Complex named O. K. Antonov (presently the “Antonov State Enterprise”), the An-225 has an unrivaled maximum payload of 250 tons. The prototype of the An-225, the large cargo plane An-124, weighs 150 tons, the Boeing 747-8F cargo plane “Jumbo Jet” 147.6 tons, the Boeing 777F cargo plane of the same size as a conventional long-distance passenger plane 103.9 tons, and the U.S. Air Force’s C-17 cargo plane, which is also stationed at Yokota Air Base, 78 tons. The maximum payload is the maximum amount of weight the aircraft can carry when fully loaded with the minimum amount of fuel. In actual operation, the aircraft needs to be loaded with a large amount of fuel while reducing their body weight to fly a long distance of nearly 10,000 kilometers. Therefore, the realistic amount that can be transported from China to Europe or the United States at a time is probably about 100 tons. (This does not apply when the plane refuels along the way.) In any case, there are no other transportation means in the world that can transport the same amount of cargo at high speed. Of course, sea mail can carry much more, but the transportation speed is incomparable.

 このほか、ウクライナ空軍の輸送機Il-76MD、国内省の要人輸送機An-74TK-200VIP(医療チームをイタリアへ輸送)、国民親衛隊の哨戒機An-72Pなどが輸送任務に従事しました。また、民間航空会社のウクライナ国際航空やスカイアップ航空、アズール・エア・ウクライナも、保有する旅客機を貨物機として使用し、物資や郵便物の輸送に従事しています。リヴィウ国際空港をハブとして昨年から本格的に営業を始めた貨物航空会社「エレローン」は、小型貨物機An-26BとAn-26を1機ずつ保有しラトヴィアやスウェーデンなど周辺国とのあいだに郵便輸送を始めました。
Other transport missions have been operated by the Ukrainian Air Force transport aircraft Il-76MD, the Ministry of Internal Affairs’ VIP plane An-74TK-200VIP (used for transporting medical teams to Italy), and the National Guard of Ukraine An-72P. Commercial airlines such as Ukrainian International Airlines, SkyUp Airlines, and Azur Air Ukraine also use their passenger planes as cargo planes to transport goods and mail. The Cargo air company “Eleron,” which launched last year with Lviv International Airport as a hub, have one An-26B and An-26 (small cargo planes) each and started a postal service between neighboring countries such as Latvia and Sweden.

 ウクライナでは現在、通常の航空旅客輸送(定期便)が停止しているため、これまで旅客機に積載していた国際郵便物が滞るという問題が生じています。そのため、日本からウクライナへは郵便は送れないことになっています。ときどき運航されている特別旅客便は、この問題を解決する目的もあると思われます。
 個人的に、郵便が機能していないのは少々心細いので、ウクライナと各国の航空貨物輸送を応援したいと思います。とは言っても、気持ちだけですが。
 ただ、残念なニュースもあります。ウクライナがポーランドへ空輸した中国製医療用マスクの品質保証書が偽装されたもので、マスクがきちんと効果を発揮するか不明であるという報道がありました。同種の偽装ニュースはほかにもあり、それではウクライナの努力も水の泡になってしまいます。また、欧州委員会でEUの中国への「病的な依存性」の指摘がありましたが、これもウクライナの航空機の活躍に水を差す現実です。今回の件でウクライナが批難される謂れはないにしても、ウクライナには(ロシアを批判しながら)中国には何か妙な幻想を抱いている人たちもいるので、本当にヨーロッパに入るのか、それともロシアの代わりの新しい「大いなる兄」を見つけるだけなのか、注意しなければなりません。
Ukraine is currently experiencing difficulties with international postal services. Due to the suspension of the scheduled passenger flights, international airmail is also at a standstill. So, you cannot send mail from Japan to Ukraine. Special passenger flights, which happen occasionally, may also be used to solve this problem.
I feel a little uneasy about the suspension of postal services, so I would like to support air freight transportation in Ukraine and other countries. Even if it is only by praying for them in my heart.
But there is some unfortunate news. Reports say that the alleged quality certificate of Chinese medical masks shipped by Ukraine to Poland turned out to be fake, and it is not certain if the masks are effective. There are other similar news stories, and it worries me that Ukraine’s efforts are going to be in vain. The European Commission pointed out the EU’s “morbid dependency” on China. This, too, has dampened the achievement of Ukrainian aircrafts, though Ukraine has no reason to be blamed for this incident. Some people in Ukraine, while criticizing Russia, have some strange fantasies about China, and we have to be careful whether we really join Europe or just find a new “big brother” to replace Russia.

【改革 / Reform】
 ウクライナでは、ソ連時代からの名残で農地の自由な売買が禁止されてきましたが、今月、それを認める新法が成立しました。この法律には賛否両論あるのですが、重要法案の成立により改革が進められようとしています。
In Ukraine, free transactions of agricultural land have been banned as a vestige of the Soviet era, but a new bill to liberate the farmland market was passed this month. There are pros and cons to this law, but with the passage of this important bill, the reform is starting to move forward.

【参考リンク / Reference】
イワーン・ワカルチューク氏訃報(4日12:32付報道) [https://www.pravda.com.ua/news/2020/04/4/7246490/].
歴史的瞬間。ゼレーンシケィイ大統領、土地市場法に署名(28日15:02付報道) [https://www.pravda.com.ua/news/2020/04/28/7249698/].

 


2020年3月 活動日誌 / March 2020 Activity Report

2020年3月31日 / March 31, 2020
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / HARA Masaki

【大学の様子 / University Closure】

 リヴィウ大学では、11日(水)まで通常の授業が行われました。しかし、11日に翌日から全国の大学・学校を閉鎖すべしという決定が突然、政府によりなされたために、12日(木)からリヴィウ大学も閉鎖することになりました。当時ウクライナではまだ新型コロナウイルスへの感染が確定した患者数は1人だったので、この措置には少々驚きました。当日午後からは、構内への立ち入りもできなくなりました。先生によっては、オンライン授業を行ったりもしているとのことです。
The University of Lviv had regular classes until Wednesday, March 11. However, following the government’s decision announced on the same day to close all universities and schools from the next day, the University has been closed since Thursday, March 12. At the time, Ukraine had only one confirmed case of infection with the novel coronavirus, so I was a little surprised by this measure. From the afternoon of the 12th, we were not allowed to enter the campus. Some teachers started to offer online classes.

 学校(日本の小中高に当たる)も閉鎖されており、3月に予定されていたセンター試験(外部独立評価、ЗНО)模試は4月初頭に延期され、さらにこれも延期、4月24日に今後の実施の有無が決定されるとのことで、入試本番(ウクライナでは大学入試はセンター試験に統一されています)も例年より遅れる見込みであると教育省は説明しています。受験生は、いつ受験があるのかわからないので、保護者ともどもやきもきしているでしょう(模試が中止された場合、すでに支払った受験料が返金されるのかとかも)。
Schools (equivalent to Japanese elementary, junior high and high schools) have also been closed, and the mock examination of the Center Examination (External independent evaluation or ЗНО) initially scheduled for March was postponed until early April, and has now been postponed further. The decision whether to hold the mock exam at all will be made by April 24. According to the Ministry of Education, the actual Center Examination will be rescheduled to a later date than usual this year (in Ukraine, the Center Examination is the unified university entrance examination). Students and their parents must be anxious because they do not know when they will be able to take the exam, or if the fees already paid will be refunded if the mock examination is canceled.

【検疫措置 / Quarantine Measures】

 ウクライナでは、新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、3月12日には「検疫措置」(карантин)がとられ(3週間、4月3日まで)、その後、同措置は4月24日まで延長、全国の「非常状態」(надзвичайна ситуація)が宣言されました。その期間中、ウクライナの国境は閉鎖され、永住資格や一時滞在資格のある者、外交官や国際機関の職員を除く全ての外国人の入国が禁止されています。なお、「非常状態」は「非常事態」(надзвичайний стан)ではないと説明されており、市民個人の権利の制限などの措置は取られておりません。「検疫措置」というのは、東京で最近話題の都市封鎖(ロックダウン)のようなものかと存じます。ウクライナでは市町村が互いに比較的離れて点在しているため、そのあいだを連絡する交通機関を停止すれば比較的簡単に封鎖ができるようです。現時点では、多くの州では自家用車などの通行は止められておりません。
In Ukraine, to prevent the spread of the new coronavirus, three-week “quarantine measures (карантин)” were implemented on March 12 until April 3. Subsequently, these measures were extended until April 24, and an “emergency situation (надзвичайна ситуація)” was declared nationwide. During this period, Ukraine’s borders are closed and all foreigners except those with permanent residency or temporary residency status, diplomats and staff of international organizations, are prohibited from entering. An “emergency situation” is explained as different from a “state of emergency” and no measures have been taken to restrict the rights of individual citizens. I think the “quarantine measures” are like the lockdown that has been recently talked about in Tokyo. Enforcing lockdown in Ukraine seems relatively easy once transportation between cities is stopped, as Ukrainian cities, towns, and villages are scattered relatively far from each other. At the moment, private cars have not been stopped in many states.

 検疫措置の骨子の一つが交通網の遮断で、3月17日には定期国際航空便が停止され、18日には国内の鉄道・航空・バス旅客輸送が停止されました。その後も国外にいるウクライナ国民の帰国希望者を輸送したり、ウクライナにいる外国人の出国希望者輸送するための特別便がウクライナ国際航空、スカイアップ航空を中心にウクライナの国内外の航空各社によって運行されていましたが、27日にはそれも原則全便が運行停止となりました(一部、その後も旅客便の運航がある模様ですが、すべてチャーター便かもしれません。詳細把握しておりません。なお、ここで特別便と呼んだのは個人が切符を普通に購入できる旅客便のことで、チャーター便というのは個人が通常、切符を購入することができない便のことです)。
One of the main focuses of the quarantine measures is the blockage of the transportation network, which led to the suspension of regular international flights implemented on March 17. This was followed by the suspension of all domestic passenger transport including trains, buses, and flights on the 18th. Since then, special flights were operated by Ukraine International Airlines, SkyUp Airlines, and other domestic and international airlines to transport Ukrainian nationals abroad seeking to return to Ukraine and foreigners in Ukraine seeking to leave Ukraine. However, all these flights were suspended on March 27. There seems to be some passenger flights operating after that, but they may all be chartered flights, I am not sure of the details (“special flights” here refers to passenger flights in which an individual can purchase a ticket, while “chartered flights” are flights in which an individual cannot normally purchase a ticket.)

 市内交通も一部運休や間引き運転がなされ、一度に乗ることのできる乗客数が制限されるなどしています(厳守されているかは不明です。警察が検査しているような現場を見掛けましたが、取締りに関する正確な情報は把握しておりません)。キーウ、ハールキウ、ドニプロー各市では地下鉄が運休していますが(これは、3月30日にジョージアが地下鉄を運休するまで、ヨーロッパで唯一の措置だったようです)、リヴィウにはそもそも地下鉄などというものは存在しませんので、関係ありません。リヴィウ電気交通(市電、無軌条電車)は実質的に通常運行しており(乗車人数制限あり、また子供や老人の運賃免除は停止、乗車券の車内販売停止)、バスは減便して運行しているようです(感染防止のためというより、乗客が激減して走らせても採算が取れないためではないかと思われますが、減便の実際の理由は不明です。公共企業の運行路線の方が、私企業の路線より運行本数が確保されているような気がしますが、正確には未調査です)。駅前に普段たくさんいる近郊路線のバスも少ししかいません。駅には電車や気動車が並んでいますが、なぜか日によって停まっている編成が変わっています。旅客輸送は中止して全列車運休しているはずなのですが、業務上の運行があるのでしょうか? 一時期、新型車両が3編成も並んでいたのですが、翌日には1編成に減り、30日に見たときには一つもいなくて従来型車両だけになっていました。
Some local public transportation has also been suspended or reduced, and they have been limiting the number of passengers allowed aboard at one time (I’m not sure if they’re following through with this – I once saw the police inspecting a bus, but I don’t have accurate information about the restrictions). Subways are out of service in the cities of Kyiv, Kharkiv and Dnipro, which were apparently the only precautionary measures in Europe until Georgia suspended its subway operations on March 30. It seems that Lvivelectrotrans Transportation is operating normally, though they have imposed a limit on the number of passengers and suspended the fare exemption for children and the elderly as well as the sale of tickets onboard. Buses are operating with reduced numbers (I suppose these changes have more to do with profits than precautions against infection; it would not be profitable to operate the regular schedule with a sharply decreased numbers of passengers, but I do not know for sure. I have the impression that the public transport services operated by public companies are keeping more lines running than those operated by private companies, though I have not investigated this either). There are usually a lot of buses for suburban routes in front of the station, but now only a few can be seen. At the station, there are trains and diesel railcars lined up, but the combinations seem to differ depending on the day. Passenger transportation has since been stopped and all trains are supposed to be suspended, but I wonder if commercial trains are still running. I once saw three latest-model trains lined up, but the number decreased to one the next day. And when I saw it on the 30th, there were no new trains any more, only conventional ones.

渋滞する交差点もすいているホロドーツィカ通り。右の看板は、「命を守れ! 家にいよう!」
An unusually empty Horodotska Street. The sign on the right reads “Save Lives! Stay Home!”

市街地付近のホロドーツィカ通り。普段は渋滞している場所
The urban area surrounding Horodotska Street. It is usually congested.

 感染拡大防止のもう一つの骨子が、店舗・公共施設などの閉鎖です。食料品店(スーパー含む)、薬局、ガソリンスタンド以外の店舗は閉鎖が命じられました。ショッピングモールでは、スーパーのみ営業しています。開店している店舗は徐々に減っているようです。店舗によっては、営業時間の短縮もあります。今のところはまだ、買い占めや流通の滞りによる商品の枯渇は特に起こっておりませんが、人々はそろそろ起こるだろうと考えています。実際はどうでしょうか。役場などの公共サービスも縮小されています。
 ウクライナではこれまでマスクをするのはよほど病気がひどい人と思われていて、マスクをして電車やバスに乗ったりするとそれだけで席を譲られたりするほどでしたが、今ではマスクをする人が大幅に増えました。ただ、マスクは品薄で入手できないためにマスクをしない人もいるようです。また、必要ないと考えてしない人もいると思われます。しかし、鼻の高い西洋人は、マスクがしにくそうで気の毒ですね。鼻を出してマスクしている人が一定数います。
  Another key to preventing the spread of infection is the closure of stores and public facilities. Stores other than grocery stores (including supermarkets), pharmacies, and gas stations were ordered closed. In shopping malls, only the supermarkets are open. It seems that the number of open stores is gradually decreasing. Some stores have shortened their business hours. At the moment, there is no shortage of products due to buyouts or disruptions in distribution, but people think it is only a matter of time. I wonder if this really is the case. Public services such as government offices have also been reduced. In Ukraine, people used to think that only seriously ill people wear masks, and people would give up their seat for those wearing a mask on a train or bus, but now the number of people wearing masks has greatly increased. However, some people do not wear masks due to supply shortage, or simply because they do not think them necessary. In any case, I feel sorry for them because they look uncomfortable wearing masks. Some people wear masks but leave their noses outside of them.

 政府や自治体などが市民に外出を控えるよう呼び掛けており(広告を出したり、市内に車を出して放送で呼び掛けたりしています)、リヴィウ市内も人通りが少なく、いつも渋滞のひどいホロドーツィカ通りも比較的すいています。聞いた話では、80年代はこんなだったかも、とのことです。空気も改善したように感じます。
 リヴィウ市では、感染者のペットを預かって世話をしてくれるサービスを提供するそうです(事前登録必要)。
Governments and municipalities have called on citizens to stay indoors. They put out advertisements and broadcast announcements by driving cars fit with speakers around the city to raise awareness on the precautions. The city of Lviv is also relatively empty, as is Horodotska Street, which is always heavily congested. I heard that it was like this in the ’80s. I feel that the air has also improved. On another note, I hear that the city of Lviv is offering a service to look after the pets of infected persons (pre-registration required).

リヴィウ駅前。
車が少ないので、石畳が広く見える。
歩道の人影もまばら
In front of Lviv Station.
There weren’t many cars, so the paved road looks wider.
People on the sidewalk were also sparse.

駅前バスターミナル。
バスも人も少ない。
写真のバス2輛は、近郊・中距離路線の特別便の車輌の様子
(定期便は全運休)
The bus terminal in front of the station.
There weren’t many people on the bus either.
The two buses in this picture are special buses for the suburban and middle-distance routes (the regular buses have been suspended).

閉鎖され、利用者のいないリヴィウ駅。
駅員(または警備員)だけがいる
Lviv Station, closed and empty.
Only station staff (and security) are inside.

 ウクライナでは日を追って感染者数が増大しており、この記事が公開される頃にはどうなっているかわかりませんが、聞いた話では、リヴィウの医師たちはウクライナもイタリアのようになるだろうと話しているそうです。尤も、事態を常に悲観的に語るのを好むのもウクライナの国民性の一つ(?)のような気がするので、実際にはそこまでひどくはならないことを期待したいです。
There is no knowing what will happen in Ukraine by the time this story is published on the website, but doctors in Lviv say Ukraine will follow the path of Italy. However, I think that Ukrainians always prefer to talk pessimistically about tough situations, and that this is part of their national character, so I hope that this situation doesn’t actually get that bad.

【参考リンク / Resources】

新型コロナウイルス感染者数等に関するデータ
[https://www.pravda.com.ua/cdn/covid-19/cpa/] 2020年3月31日閲覧(以下同じ)。

新型コロナウイルス感染者数および分布
[https://public.tableau.com/profile/publicviz#!/vizhome/monitor_15841091301660/sheet0​​]

検疫措置実施の決定(ウクライナ政府)。2020年3月11日13:43
[https://www.kmu.gov.ua/news/uryad-prijnyav-nizku-rishen-shcho-mayut-ubezpechiti-ukrayinciv-vid-covid-19-11-03-20?fbclid=IwAR31alZLy55xNAlW82qQAhLH1fKbFxzPtG-YtR5XDvuNj-1CJIagF-_Q6Bs]

国際航空旅客輸送の停止(報道)。2020年3月13日20:14
[https://www.pravda.com.ua/news/2020/03/13/7243562/]

旅客輸送停止の決定(ウクライナ政府)。2020年3月16日00:12
[https://www.kmu.gov.ua/news/uryad-prijnyav-rishennya-pro-zaboronu-pasazhirskih-perevezen-ta-obmezhiv-kilkist-uchasnikiv-masovih-zahodiv-10-osobami?fbclid=IwAR1eWu-SvtQysV484eHUFM73zPdS0B9klXeZscm_NEJBS9ah_O31Z8BiI94]

検疫措置の4月24日までの延長(報道)。2020年3月25日13:44
[https://www.pravda.com.ua/news/2020/03/25/7245063/​​]

検疫措置の4月24日までの延長(日本国外務省)。2020年3月26日 [https://www.anzen.mofa.go.jp/od/ryojiMailDetail.html?keyCd=84292]

日本国外務省のウクライナに関する安全情報
[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_182.html#ad-image-0]

リヴィウ市長アンドリーイ・サドヴィーイ氏のfacebook
(リヴィウ市の新型コロナウイルスに関する情報を提供している)
[https://www.facebook.com/pg/andriy.sadovyi/posts/]


2019年12月 活動日誌 / December 2019 Activity Report

2019年12月31日 / December 31, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【大学の様子 / State of the University】
リヴィウ大学は、10日まで授業期間でした。そのあと、期末試験の期間になります。実際には、我々はその期間も少々授業を行いました。
期末試験は、ザーリク(Залік)と呼ばれる試験とイースペィト(Іспит)と呼ばれる試験が行われます。ザーリクは実際には平常点から算定されることが多いようです。学生によると、期末試験は試験(口頭が多い)が実施される場合と、レポートが課される場合があるそうです。その辺はだいたい日本と同じようです。
Lviv University’s first semester classes ended on December 10. After that, students entered the period of final exams, though we still had a few classes during that period.
The final exams are either Zalik (exams with 3-level grading) or Ispyt (exams with 5-level grading). Zalik are often calculated from the students’ class participation. According to students, the final examinations can be either  an exam (usually oral) or a report, similar to the exams in Japan.

【スケーリウカ / Skelivka】
先月の話の続きです。
スケーリウカ(Скелівка)は、リヴィウ州、スタレィーイ・サーンビル地区の村です。
ここはかつて、ヘルブルト家の本領、フェルシュティン(Felsztyn, Фельштин)またはフルシュティン(Fulsztyn, Фульштин)でした。旧名は、ドイツにあったヘルブルト家の祖先の知行地に由来するとのことです。ウクライナにはもう一つフェルシュティンという町があり、その建設者もヘルブルト家でした。
This is a continuation of last month’s story.
Skelivka (Скелівка) is a village in the Staryi Sambir Raion in the state of Lviv.
This village was the home of the Herburts, and was previously known as Felsztyn (Фельштин) or Fulsztyn (Фульштин). The former name is said to have come from the fiefdom of the ancestors of the Herburt family in Germany. There is another town in Ukraine called Felsztyn, and it was also built by the Herburt family.

フェルシュティンは1390年に文献上に初めて登場します。1551年には、マクデブルク法が与えられました(したがって都市になったものと思われますが、町と書いてあることが多いです)。かつては市庁舎があり、町には城もあって町の周りは城壁に囲まれていました。しかし、ヘルブルトの建てた城郭は1649年にコサックの攻撃により破壊されました。
街道沿いに立つのが、煉瓦造りの聖マルティヌス教会です。1500年前後にヤン・ヘルブルトによって建立されました(ヤン・ヘルブルトという人物は何人もいるのですが、これはヤン・シュチェンスヌィ・ヘルブルトの祖父のことだと思います)。このヘルブルト家の菩提寺は、厚い壁と高い塔を備え、かつては城郭とともに町の防衛機能を担っていました。
Felsztyn first appeared in the literature in 1390. In 1551, the Magdeburg rights were implemented in this village (therefore, Felsztyn must have become a city, but it is often referred to as a town). There used to be a city hall and a castle in the town, and the town was surrounded by castle walls. However, the original castle that Herburt built was destroyed in 1649.
Along the road stands St. Martinus’s Brick Church. It was erected by Jan Herburt around 1500 (There are a number of people named Jan Herburt. I think this Jan Herburt is the grandfather of Jan Szczęsny Herburt.). With thick walls and tall towers, the Herburt family temple once defended the town along with the castle.

Ukraine1912 (1)
聖マルティヌス教会。外観は比較的よく保存されている。鐘楼は煉瓦造りの四角柱で、元は防衛用の城塔であったと思われる。/ Martinus Church. The exterior is relatively well preserved. The bell tower is a square pillar made of brick and it is thought to have originally been a castle tower for defense.

今日では、少なくとも建物の外観は比較的よく保存されているように見えます。しかし、実際には第一次世界大戦時にロシア帝国軍によって破壊され、その後、原状回復はされていません。屋根は瓦葺きからトタンに変更され、小塔は縮小され、建物内外の装飾が失われただけでなく、恐らく最大の喪失は、17世紀に設えられたマニエリスム様式の祭壇やヘルブルト家の人々の墓所が破壊され失われたことでしょう。それでも、ひと目でゴシック様式とわかる16世紀の教会堂外壁とやや壊れている15世紀の鐘楼(壊れた内部に入らずとも鐘が鳴らせるようロープが付けられている)、防衛用の土塁が現存します。
教会脇の学校も、古くからあるようです。建物が違いますが、昔の写真にも校舎が写っています。バス停のある中心部には公園があり(かつて市庁舎があった場所と思われます)、その向かいにシュヴェイクの像が立っています。彼はヤロスラフ・ハシェク(Jaroslav Hašek, 1883–1923)の小説『善良なる兵士シュヴェイク』の主人公で、彼の冒険はフェルシュティンの町から始まりました。彼はここから北上し、ドブローメィリにも行きましたので、あちらにも記念碑が立っています。どうも、この地方の《地元の名士》のようですね。
Today, the building, or at least its exterior, looks relatively well-preserved. However, it was once destroyed by the Russian Imperial Army during World War I and has not been restored to its original state since then. The roof has been changed from tiled to galvanized iron, the size of the turrets has been reduced and the interior and exterior decor has been lost. Perhaps the greatest losses were the destruction and loss of the Mannerism-style altars built in the 17th century and the Herbldt family graves. Even so, the exterior walls of the 16th century cathedral, the somewhat broken 15th century bell tower (a rope is attached so that the bell can be rung without entering the broken interior) and the defensive earthen walls all remain..
The school by the church seems to be there from olden times. The building has been rebuilt, but old pictures show the original school building standing there.
In the heart of the town near the bus stop is a park (former site of the city hall), opposite which stands the statue of Švejk. He is the main character of the novel “The Good Soldier Švejk” by Jaroslav Hašek (1883 – 1923), and his adventure started in the town of Felsztyn.
He went north from here to Dobromyl, where there is also a monument. He seems to be the “local celebrity” of this area.

Ukraine1912 (2)
スケーリウカのシュヴェイクの記念碑。『兵士シュヴェイクの冒険』の始まりの地を記念している。碑銘に、「ここ、かつてのフェーリシュティンにて、勇敢なる兵士ヨゼフ・シュヴェイクはチェコの作家ヤロスラフ・ハシェクの思し召しにより友軍の捕虜となりにけり」とある。/ The monument to Švejk in Skelivka. It marks the starting point of “The Good Soldier Švejk,” written by Jaroslav Hašek. The epitaph reads “Here, at old Felsztyn, the brave soldier Josef Švejk was held captive by the allied army to fulfill the will of the author Jaroslav Hašek.”
Ukraine1912 (3)
ドブローメィリのシュヴェイクの記念碑。背後が見える透かし彫りのおもしろい作り。碑銘は「ドブローメィリに来られてシュヴェイクはほんとについていた」/ The monument to Švejk in Dobromyl. It has a unique opening through which the scenery beyond can be seen. The inscription reads “Švejk was lucky to have made it to Skelivka”.

かつてはシナゴーグもあったそうですが、現存しません。この地方のユダヤ人は、第2次世界大戦時にナチスの迫害を受けました。ドブローメィリの丘の上のユダヤ人墓地跡には、彼らの墓石を固めて作った記念碑があります。
There used to be a synagogue, but it no longer exists. The Jews in this area were persecuted by the Nazis during World War II. At the site of the Jewish cemetery on the hill of Dobromyl, there is a monument made from their gravestones.

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スケーリウカのバス停。脇にヘルブルトの家紋とウクライナ語で「フェーリシュティン」、ハシェクのフレーズ「すべての道はかのフェルシュティンへ通ずべし」、待合室内にはコサックのことわざ「ドニプロー川流るる限り、ウクライナは不滅なり」などが書いてある。花模様は、ボーイコ地方の花柄の刺繍をやや思わせる。/ Skelivka bus stop. On the side of the door, the family crest of Herburt and the word “Felsztyn“ were written in Ukrainian, and in the waiting room Hašek’s quote, “All roads lead to Felsztyn,” and the Cossack proverb “As long as the Dnipro river flows, Ukraine will flourish” were written on the wall. The flower pattern on the wall is somewhat reminiscent of the Boyko region’s flowery embroidery.

【テルナーワ / Ternava】
スケーリウカからドブローメィリに向かうと、その手前にテルナーワ村(Тернава)があります。この村についてはきちんとした資料を持っておりませんが、ウィキペディアによると、1374年に文献上に初めて現れるとのことです。ドブローメィリの山城は、この村から登ると早いです。村の墓地のあるところを右に曲がり、畑を抜けると城山へ行かれます。
村は、道路沿いに線上に発展した典型的なウクライナの農村であると言えます。家々に果樹があります。その道路は、バスの通る街道に交わります。街道の反対側はまた別の村になります。
Walking from Skelivka to Dobromyl, you will come across Ternava Village (Тернава). I don’t have proper materials for this village, but Wikipedia says it first appeared in literature in 1374. The quickest way to the Dobromyl Castle is to climb from this village. Turn right at the village cemetery, go through the fields, and you will reach the promontory.
This village can be said to be a typical Ukrainian agricultural village developed alongside the road. There are fruit trees in every house. The road meets a highway where buses pass. The other side of the road is another village.

村の一軒の家の前に、記念碑の十字架が立っていました。銘板には、「ここにウクライナ蜂起軍の勇士たち、ヤロスラーウ・ウォイテーチュコ(Ярослав Войтечко)、ヤロスラーウ・ラビネーツィ(Ярослав Лабінець)、メィハーイロ・クラソータ(Михайло Красота)斃る。栄えあれウクライナに、英雄に栄えあれ」とあります。家で聞けば詳しくわかったかと思いますが、ウォイテーチュコ氏はここで1948年2月26日に行われたソ連内務省(軍隊を持っている)との戦闘で戦死したようです。
There was a memorial cross in front of a house in the village. The plaque reads “Here, the brave soldiers of the Ukrainian Insurgent Army, Yaroslav Voitechko, Yaroslav Labinets, and Mykhailo Krasota fell. Glory to Ukraine, Glory to the heroes.” A record says that Voitechko was killed here on February 26, 1948 in a battle against the Soviet Interior Ministry.

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テルナーワ村の民家の前に建てられたウクライナ蜂起軍の記念碑 / Monument of the Ukrainian Insurgent Army in front of a house in the village of Ternava.

ウクライナ蜂起軍というのは、数多く作られたウクライナの独立運動組織のなかでも最も力のあった組織の一つで、ウクライナ独立の敵と最も激しく戦った軍事組織でした。ウクライナがソ連とナチス・ドイツとに侵攻・占領を受けていた1942年に組織され、ウクライナ全土で活動しました(東部や南部でも組織されました)。第二次世界大戦中はソ連、ドイツ、ドイツと協力関係にあったポーランド人組織と戦い、戦後はソ連とその衛星国となったポーランドと戦いました。その活動は地元の住民によって支えられており、特に西部の山岳部では村人に混じりながら山林に潜んで効果的なゲリラ戦を展開しました。これに手を焼いたソ連とポーランドは、ウクライナ蜂起軍の根となっていたウクライナ人社会を根絶することを考案し、非戦闘員のウクライナ系住民の強制移住を行いました。この民族浄化政策が、「ヴィスワ作戦」(Akcja „Wisła”, Операція «Вісла»)です。
The Ukrainian Insurgent Army was an armed group and one of the most powerful of Ukraine’s numerous independence organizations that fought the most fiercely against the enemies of Ukraine’s independence. Organized in 1942 during the invasion and occupation of Ukraine by the Soviet Union and Nazi Germany, it operated throughout Ukraine (in the East and the South.).
During World War II, they fought against the Soviet Union, Germany, and Polish organizations that had collaborated with Germany. After the war, they fought against the Soviet Union and its satellite state, Poland. Their activities were supported by local residents, and, especially in the mountains of the west, they engaged in effective guerrilla warfare by hiding in the mountains and forests along with the villagers. Frustrated by this, the Soviet Union and Poland devised a way to eradicate the Ukrainian community at the root of the Ukrainian Insurgent Army and forcibly relocated non-combatants of Ukrainian origin. This ethnic cleansing policy was “Operation Vistula”.

ドブローメィリ地方はこの作戦により最も大きな被害を受けた地域の一つであるボーイコ地方に含まれていることは、先月少し書きました。ウクライナ人コミュニティーが滅ぼされ、支援を失い孤立したウクライナ蜂起軍は徐々に衰えていき、1950年代半ばには組織的な武力闘争を放棄せざるを余儀なくされました。
テルナーワ村の戦いは、1947年春に開始されたヴィスワ作戦の翌年に、作戦対象の中心地域で行われた戦闘の一つであったということになります。記念碑の十字架は、恐らく、若者たちの無残な死を哀れに思った住民が追悼して建てたのだと思います。
I mentioned last month that Dobromyl is in the Boyko region, one of the areas most affected by this operation. The Ukrainian community was destroyed, and the isolated Ukrainian Insurgent Army, which had lost its support, gradually declined and was forced to abandon its systematic armed struggle in the mid-1950s.
The Battle of Ternava was one of several battles that took place in the core areas of Operation Vistula, which began in the spring of 1947. This memorial cross was probably built by the residents to mourn the tragic deaths of the young people.

【参考リンクほか / References】
Добромиль // Замки і храми України [https://castles.com.ua/dobromyl.html] (最終閲覧日:原稿作成日、以下同じ)。
Скелівка // Там само [https://castles.com.ua/skeliwka.html].
Давній Фельштин костел святого Мартина і не тільки [https://risu.org.ua/ua/relig_tourism/krayeznavstvo_digest/70334/].
Мацюк О. Замки і фортеці Західної України. Львів: Центр Європи, 2005. C. 83.


2019年11月 活動日誌 / November 2019 Activity Report

2019年11月30日 / November 30, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【今月のリヴィウ大学 / Lviv University This Month】
学内外にたくさんのイベントがあった先月から打って変わり、今月はごく普通の授業期間でした。我々は日本語の勉強に勤しみましたが、特にここで申し上げるほどの目新しいこともないので、今回はリヴィウ近在の町についてお話したいと思います。
Very different from last month, where there were many events both inside and outside of the university, this month was classes as usual. We’ve been putting out efforts into studying Japanese, but there’s nothing particularly new that I’d like to mention here, so this time I’d like to talk about a town near Lviv.

【ボーイコ地方のドブローメィリ / Dobromyl in the Boyko Region】
今回取り上げるのは、GJOのありますリヴィウ大学東洋学科のロマーン・ハマダー先生(Роман Романович Гамада, 1961–2017)の故郷、ドブローメィリ(Добромиль)です。先生は残念なことに亡くなってしまいましたが、ペルシア文学の翻訳を数多く残されました。
さて、リヴィウより西南西、ポーランドとの国境に程近い山地にドブローメィリ市はあります。周囲には、ラーディチ山(Радич)をはじめ、山がぽこぽこ立っています。リヴィウからは、サーンビル(Самбір)経由の鉄道かバスで、片道3~4時間くらいで行かれます。
この辺りから現在のポーランド共和国領に跨る一帯はボーイコ地方(Бойківщина)と呼ばれ、ボーイコ語というウクライナ語の方言を話すボーイコ人(ウクライナ人を構成する下位グループ)が暮らしています(ドブローメィリはシャーン川上流方言の地域とも重なる)。この地方は、イワーン・フランコーの故郷でもあります。ボーイコ人は、ポーランドとソ連の強制移住政策(ヴィスワ作戦)による迫害を受けました。現在、サーンビル駅前広場には、強制移住させられた人々の記念碑が立っています。
In this month’s report, we will take a look at Dobromyl, the hometown of Roman Romanovich Hamada (1961 – 2017), a professor of Oriental studies at the University of Lviv, where the GJO is based. He has unfortunately passed away, but he left many translations of Persian literature.
The city of Dobromyl is in the mountains southwest of Lviv, close to the Polish border. Around it, there are many mountains. From Lviv, it takes about 3 to 4 hours one way by train or bus via Sambir.
The area stretching over the territory of the present Republic of Poland is called Boikivshchyna, where the Boykos (a subgroup of Ukrainians), who speak a dialect of Ukrainian called Boyko, live (Dobromyl also overlaps with regions that speak the Upper Sannian dialect). This region is also the home of Ivan Franko. Boykos were persecuted by the Polish and Soviet policies of forced resettlement (Operation Vistula). Now, a monument commemorating the displaced stands in the square in front of Sambir Station.

【ドブローメィリとヘルブルト家 / Dobromyl and the Herbrids】
ドブローメィリは、1374年に初めてその名が史料に現れます。この年、オポレ公ヴワディスワフ(Władysław Opolczyk)により、ヴィールワ川(Вирва)とストルウヤージャ川(Стрв’яжа)流域の諸村とともにヴェストファーレン系士族ヘルブルト家に与えられました。
当初は村でしたが、1497年には王の許可によって町となり、モラヴィア、ハンガリー、シレジアからも商人が集まりました。製塩業によって栄え、1566年にはリヴィウ城代スタニスワフ・ヘルブルト(Stanisław Herburt, 1524–1584)の働きかけにより、国王からマクデブルク法(自由都市の特権)が下賜され都市となりました。今日でも、自由都市のランドマーク、立派な市庁舎が中央広場に立っています。
Dobromyl first appears in historical documents in 1374. This was the year it was given by the Duke of Opole, Władysław, along with the villages of the Vyrva and Strviazha river valleys, to the Herbldt family of Westphalian ancestry.
It was originally a village, but by 1497 it had become a town with the permission of the king, and merchants from Moravia, Hungary, and Silesia gathered there. The town prospered as a salt manufacturer, and in 1566, thanks to the efforts of Stanislaw Herbert (1524 – 1584), the keeper of the castle, the town became a city through the Magdeburg Law (rights of an autonomous city) granted by the King. Even today, there is a landmark demonstrating the city’s autonomy; a splendid city hall in the central square.

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ドブローメィリ市庁舎。自治権を有する自由都市であったことの象徴。/ City Hall of Dobromyl. Symbol of a free city with autonomy

ところで、市から南の修道僧山(Чернеча гора)とのあいだにはフチョーク(Гучок)という村がありましたが(現在は市に併合)、地元の伝承によると、その辺りは湿っていて滝があり、その音(フチュフチュ)から名付けられたが、あまりに田舎っぽい名前なので都市になるときその名は選ばれなかったのだそうです。
By the way, between the city and Mt. Chernecha, there was a village called Huchok (though it is now part of the city), which according to local lore was damp and had a waterfall. The village was named for the sound of the waterfall (Fuchu Fuchu). This name sounded so unsophisticated that it was not chosen when it became a city.

1531年には、アンジェイ・ヘルブルト(Andrzej Herburt)により町に初めてカトリックの教会堂、主変容教会が建てられました。現在でも活動しています。日曜昼前に行くと中に入れると思いますが、天井の装飾が独特です。
Andrzej Herburt founded the first Catholic church in this town, the Transformed Church, in 1531. It is still active. I think you can go inside if you go there before noon on Sunday. The decoration of the ceiling is unique.

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主変容教会(正面)。赤い十字架がおしゃれ。裏手に鐘楼がある / The Church of the Transfiguration (front). The red cross is fashionable. There is a bell tower in the back.
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主変容教会の天井の装飾。壁に聖人画が並んでいる。ヘラールド神父の好意で撮影。/ Decoration of the ceiling in the Church. There are saints on the wall. Photos taken with the permission of Father Herald.

この教会が立つまで、ドブローメィリのカトリック教徒たちはヘルブルト家の本領、フェルシュティン(Fulsztyn, Felsztyn, Фельштин)の聖マルティヌス教会まで通っていました。今ですとバスで30分程するので、当時徒歩で通うのは一苦労だったことでしょう。
Until this church was built, the Catholics of Dobromyl went as far as the Church of St. Martin’s Church at Fulsztyn. Now it takes about 30 minutes by bus, so it must have been hard to go there on foot.

フェルシュティンは今はスケーリウカ村(Скелівка)といいますが(バス停には旧名も書いてある)、ヘルブルト家の教会と鐘楼、防衛用の土塁が残っています。以前は教会内部にマニエリスム様式の立派な聖壇がありましたが、第一次世界大戦時にロシア軍によって破壊されました。この地方でロシア軍は猛威を振るいました。
Fulsztyn is now known as the Skelivka village (though the old name is also on the bus stop sign), but the Herburt church and belfry, as well as the earthen walls for defense, remain. There used to be a splendid Mannerism-style altar inside the church, but it was destroyed by Russian troops during World War I. Russian troops raged in this area.

【ドブローメィリ城 / Dobromyl Castle】

1450年頃、リヴィウ主鷹正ミコワイ・ヘルブルト(Mikołaj Herburt, 1447以降没)は町から4キロメートル南方のスリパー山、すなわち盲山(Сліпа гора)に防衛拠点となる木造の城を築きました。しかし、この城は1497年のタタールの襲撃で焼け落ちました。
1566年には、上述のスタニスワフ・ヘルブルトが石と煉瓦造りのルネサンス式城郭への改築に着手しました。このときの城郭は城壁や塔の一部が現存し、今日リヴィウ州で最も高い場所(海抜560メートル)にそびえる城としても知られています。暖かい時期には、ハイキング客や観光客、バーベキューをしたい人で賑わうようです。盲山へは、ドブローメィリから聖オヌーフリイ修道院経由で大豆畑を抜けていくか、隣のテルナーワ村(Тернава)から登ります。

Around 1450, Mikołaj Herburt (-1447 or later) built a defensive wooden castle on Mt. Slipa, 4 kilometers south of the town. However, the castle was burned down in the 1497 attack by the Tatar.
Stanisław Herburt undertook the renovation of a stone and brick renaissance-style castle. Part of the walls and towers of this castle still remain, and it is known today as the tallest castle in the state of Lviv (560 meters above sea level). It seems to be crowded with hikers, tourists and people who want to have barbecues during the warmer seasons. To reach the mountain, you have to either go through the soybean fields via St. Onuphrius Monastery, or climb from the neighboring village of Ternawa (Тернава).

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聖オヌーフリイ修道院。/ St. Onuphrius Monastery

ドブローメィリのまちなかには、「下の城」と呼ばれるもう一つの城がありました。こちらは1521年の史料が初出です。今日、その跡地は林野庁の敷地になっているようですが、城館を囲んでいた石積みの壁が残っていて、保存のために屋根が設置されています。その脇で廃墟と化しつつあった武器庫(兵器廠)は、今年から2021年までの3カ年計画で復元工事が始められていました。
山頂の「上の城」は詰の城として、「下の城」は平時の住居として使用されていたと考えられます。これは、リヴィウにあった「上の城」、「下の城」と同様の仕組みです。
In the midst of Dobromyl, there was another castle called the “lower castle”. Today, the stone walls surrounding the castle building remain, and a roof has been installed for preservation. A three-year project from this year to 2021 is underway to restore the abandoned arsenal.
It is thought that the “upper castle” at the top of the mountain was used as the main defensive fort, and the “lower castle” was used as a residence during peacetime. This is similar to the “upper castle” and “lower castle” in Lviv.

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林を抜けるとドブローメィリ城。入り口の塔(バスタイ)。/ Pass through the trees and you will find Dobromyl Castle. The entrance tower (Bastile)

【ウクライナのルネサンス人 / Ukrainian Renaissance】
ドブローメィリが最も栄えたのは、ヤン・シュチェンスヌィ・ヘルブルト(Jan Szczęsny [Feliks] Herburt, 1567–1616)の時代であったと言えるでしょう。西欧に学んだこのルネサンス文化人は、ザモシチ学院開設で中心的役割を担った一人でしたが、自らを「ルーシ人」(ウクライナ人のこと)と呼び、ルーシ人の権利を守るために戦った人物として知られています。
彼は、このような言葉を残しています。
「私も妻もその血を継ぐ高貴なるルーシの民が苦難に遭うとき、私は権利に教わった通り、神の助けとともに立つであろう。〔…〕権利の如何なる侵害に対しても我が力と生命を惜しまぬつもりであり、いわんや、かような偉大にして高貴なる民の側にそれを懸けるに遅れは取らぬ、我が血を分けた民は、今や権利を奪われているのだ。」
自らの民に対する誇りと信頼は、彼一人にあらず、この時代のウクライナの文化人に少なからず見られます。しかし、本来ドイツ系であるはずのヘルブルトが自らをウクライナと一体化させているのは、特に興味深く思われます。
It can be said that Dobromyl flourished the most during the time of Jan Szczęsny (Feliks) Herburt (1567 – 1616). This Renaissance man, who studied in the West and played a central role in the opening of the Zamojski Academy, called himself “Ruthenian” (= Ukrainian) . He is known as a man who fought to protect the rights of the Ruthenian people.
He is quoted as having said,
“When the noble Ruthenians, whose blood runs through the veins of both my wife and I, suffer, I would stand with God’s help, as I was taught to do by right. (…) I would spare my power and life for any infringement of rights, and so I would not be delayed in putting it on the side of such a noble people, the people with whom I share my blood, who are now being deprived of their rights.”
This pride and trust in his people is not unique to him alone, but can be seen in many Ukrainians of this period. However, it seems particularly interesting that Herburt, who was originally of German descent, united himself with Ukraine.

社会の繁栄のためには教育と学問が不可欠であると考えていた彼は、ルーシ人の学識と情報発信力を高めるため、高名な印刷技師ヤン・シェリガ(Jan Szeliga, 1636没)を招いてドブローメィリ印刷所を開きました。場所は、現在の行政区画では隣のボネーヴィチ村(Боневичі)になります(近年、記念碑が建てられました)。
彼の妻は、かつてウクライナの文化の発信地を作ったオストロージケィイ公の分家、ザスラーウシケィイ公家から嫁いできた正教徒のイェレィザヴェータ公女(Єлизавета Янушівна Заславська, 1618没)で、ドブローメィリ印刷所の紋「ヘルブルトの三柱」(„Kolumny Herburtowskie”)に、ヘルブルトの紋と並んでザスラーウシケィイ公の家紋――オストロージケィイ公の家紋と同じ――があることは、この印刷所がその精神を継承するシンボルでしょう。印刷所のモットーは、「真実と仕事」(„Prawda a praca”)でした(「真実」は「正義」、「仕事」は「作品」とも翻訳可能)。そこでは、ルーシ人の著述家スタニスラーウ・オリホーウシケィイ(Станіслав Оріховський, 1513–66)の『ポーランド年代記』(“Annales Polonici ab excessu Divi Sigismundi Primi”)やヤン・ドウゴシュ(Jan Długosz, 1415–1480)の『栄えあるポーランド王国の年代記或いは編年史』(“Annales seu cronicae incliti Regni Poloniae”)が初めて出版されるなど、後世に大きな影響を与えた書物が幾つも印刷されました。
夫妻はまた、都市と「上の城」とのあいだの修道僧山麓に聖オヌーフリイ修道院を開きました。ここは後世、ウクライナ・ギリシア=カトリック教会の府主教となるアンドレーイ・シェプティーツィケィイ(Андрей [Шептицький], 1865–1944)が修道生活を始めた場所として知られます。
Believing that education and learning were vital to the prosperity of society, he invited Jan Szeliga (-1636), a renowned printing engineer, to open the Dobromyl printing press to enhance the learning and dissemination of information among the Ruthenian people. The site is, due to modern administrative districts, in the neighboring village of Bonevich (a monument was recently built.).
His wife was Princess Yelyzaveta (-1618), an Orthodox daughter of the Zaslawski family, a branch of the Ostrogski family that created the cultural center of Ukraine.
Therefore, since the of the Dobromyl printing house, “Herburt’s Columns”, has the family crest of the Zaslawski family – the same family crest as the Ostrogski family -, as well as the family crest of Herburt, it symbolizes that the printing house inherits the spirit of the Ostrogski family.
The printing house’s motto was “truth and work” (“truth” can also be translated as “justice” and “work” as “works”). Many books that had a great influence on posterity had their first print here, including “Annales Polonici ab excessu Divi Sigismundi Primi” (Polish Chronicles from the Death of Sigismund the First) by Stanislaw Orzechowki (1513-1566), a Ruthenian author, and “Annales seu cronicae incliti Regni Poloniae” (Annals or Chronicles of the Famous Kingdom of Poland) by Jan Długosz (1415-1480).
The couple also opened the St. Onuphrius Monastery at the foot of Mt. Chernecha, which sits between the city and “upper castle”.
This site is known as the place where Andrey Sheptytsky (1865 – 1944), the future Patriarch of the Ukrainian Greek and Catholic Churches, started his religious life.

ヤン・シュチェンスヌィの舌鋒は、ルーシにポーランド化を押し付けようとしていた国王ズィグムント3世ヴァザ(Zygmunt III Waza, 1566–1632, 在位1587–1632)と、彼を育てたイエズス会に向けられました。『ルーシの民を巡る思案』(„Zdanie o narodzie Ruskim”, 1613)では、ルネサンス流のパラドックスの論法を使って公然と国王を批判します。
「私は知っている、地方議会で彼らに望みを持たせ、全国議会で笑い者にする。地方議会で約束し、全国議会でふっと吹き飛ばす。地方議会で同胞と呼び、全国議会で背教者と呼ぶ。〔…〕どう考えてもとんと合点がいかぬ。なぜなら、ルーシにルーシ人あるなかれとは、有り得べからざることであり、有り得べしとするならば、サーンビルの脇に海ありて、グダィンスクの脇にベシュチャーディの山々あれと欲するようなものだからである。〔…〕誰かポーランドにポーランド人あるなかれと欲したらどうか? 笑止! 有り得べからざることぞ。それは、たとえポーランド語を話すとも、ポーランドの法も慣習も忘却しているのだ。」
Jan Szczęsny ‘s sharp tongue was directed towards Sigismund III Vasa (1566 – 1632, reign 1587 – 1632), who was trying to impose Polonization on the Ruthenians, and the Society of Jesus that raised him. He used the Renaissance Paradox argument to openly criticize the king in “Zdanie o narodzie Ruskim” (A Note about the Ruthenian People, 1613).
“I know, let the local assembly have hope, and make them the joke of the national assembly. Promise the local assembly, and disregard them at the national assembly. Call them brethren at the local assembly, and apostates at the national assembly. (…) No matter what you think, there is no point. For in Rus, there is nothing that is impossible for Ruthenians, and if there were, it would be like wishing for the sea in Sambir, or the mountains of Bieszczady in Gdansk. (…) What if someone wanted Poles to stop being Poles in Poland? It is ridiculous! It cannot be done. That would mean forgetting how to speak Polish, and forgetting Polish law and customs.”

彼は、ウクライナ語で歌も詠みました。それは次のようなものです。
Jan Szczęsny also composed poetry in Ukrainian. Below is one such example:

Pastusze, pastusze,

 

Liubliu tie do dusze,

A sczo mene boli,

Skazu ty do woli.

Czeredoiku maiesz,

Riadit iei nie znaiesz:

Tobie z neiu licho,

Iei z tobu nie tycho.

Bywał tu didoiko,

Mił się choroszeiko;

Wołki się boiały

Czeredu miiały.

Da scoz nam czynity?

Terpity, terpity,

Z Bohem się nie bity.

牧人よ、牧人よ、/ Shepherd, Shepherd

 

我れ汝(な)を心に思う、/ I think of you,

我れを苛むことを、/ To torment you,

汝れに有様(ありよう)に聞かせよう。/ I will let you be.

汝れ家畜を持てど、/You have livestock,

調和(あや)なすことままならず。/ Harmony does not remain.

汝れ家畜と災禍あり、/ You have livestock and calamity,

家畜汝れと寛ぎなし。/ Livestock without ease.

老人(おいびと)ここにありけり、/ The old man is here,

つつがなく暮らしにけり。/ Living in good health.

狼どもは怖気づき、/ The wolves became scared,

家畜を避けて通りけり。/ Passing by and avoiding the livestock.

されど我らにいかがはせん? / But how about us?

耐えて、耐えて、/ Endure, endure

神と争うことなかれ。/ Do not fight with god.

ここでは、「老王」のあだ名で知られたズィグムント1世(Zygmunt I Stary, 1467–1548, 在位1507–1548)と、今上のズィグムント3世が対比され、後者が揶揄されています。狼はイエズス会でしょうか。この時代の文化人は真の意味を隠匿したり、ダブルミーニングを用いることを好んでいましたので、謎解きをしてみて下さい。
ヤン・シュチェンスヌィは親戚のミコワイ・ゼブジドフスキ(Mikołaj Zebrzydowski, 1553–1620)らと謀って武器を取って国王と戦い、そのため、彼の印刷所は閉鎖を命じられ、出版物も押収、莫大な借財だけが残りました。
彼の息子の代で家系は絶え、ドブローメィリはコニェツポルスキ家の所領となりました。
Here, Zygmunt I (1467-1548, reign 1507-1548), known as “the old king” is contrasted with  Sigismund III Vasa, and the latter is ridiculed. Is the wolf a Jesuit? Culturalists of this period preferred to hide the true meaning and use double meaning, so try solving the riddles hidden in the poem.
Jan Szczęsny conspired with his relative Mikołaj Zebrzydowski (1553-1620) and others to take up arms and fight the king, so his printing house was ordered to shut down, his publications were seized, and only a huge debt remained. The family line died out in his son’s time, and Dobromyl became the territory of the Koniecpolski family.

【参考リンクほか】/ Reference Links
Добромиль // Замки і храми України [https://castles.com.ua/dobromyl.html] (最終閲覧日:原稿作成日、以下同じ)。
Скелівка // Там само [https://castles.com.ua/skeliwka.html].
Українська поезія XVII століття (перша половина) / упоряд., вступ. ст. та прим. В. В. Яременка; редкол.: І. Ф. Драч та ін. Київ: Рад. письменник, 1988. С. 43. [http://irbis-nbuv.gov.ua/cgi-bin/ua/elib.exe?Z21ID=&I21DBN=UKRLIB&P21DBN=UKRLIB&S21STN=1&S21REF=10&S21FMT=online_book&C21COM=S&S21CNR=20&S21P01=0&S21P02=0&S21P03=FF=&S21STR=ukr0002048]. (1つ目の引用元)
Herburt J. S. Zdanie o narodzie Ruskim // Lipiński W. Z dziejów Ukrainy. Księga pamiątkowa ku czci Włodzimierza Antonowicza, Paulina Święcickiego i Tadeusza Rylskiego. Kijów, 1912. S. 92–97. (2つ目の引用元はS. 92–93、S. 80–92に解説)
Возняк М. Українські пісні в польських виданнях XVII ст. [Електронна копія]: (відбитка з ”Записок Наукового Товариства імені Шевченка”, т. CLC). Львів, 1937. С. 4. [https://elib.nlu.org.ua/object.html?id=3277]. (歌の引用元)
Długosz J. Historia Polonica Ioannis Długossi […] In Tres Tomos Digesta Autoritate et Sumptibus Herbulti Dobromilski edita. [T. 1]. Dobromili, 1615. [https://www.dbc.wroc.pl/dlibra/doccontent?id=8014&from=FBC]. (ドブローメィリ版『ドウゴシュの年代記』。ドブローメィリ印刷所の紋あり)
Пагутяк Г. Український вірш із ХVІІ століття. Слово Просвіти. 23. Київ, 2013. С. 13.


2019年10月 活動日誌 / October 2019 Activity Report

2019年10月31日 / October 31, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

9月末に本学留学生も日本に戻り、そのあとリヴィウは一時的に気温が零下になるなど寒くなりました。その後10月の半分程は天気もよく暖かい日が続きましたが、月末までにまた寒くなりました。木々の葉っぱも色づいて散り、東京の感覚ではすっかり冬めいてきました。
さて、10月は、日本関係の行事が幾つもありました。
At the end of September, our exchange students returned to Japan, after which Lviv was temporarily cold, with temperatures falling below zero. After that, the weather was nice and warm for about half of October, but it got cold again by the end of the month. The leaves of the trees have faded and are now looking like winter in Tokyo.
Anyway, there were many Japan-related events held this October.

【作家・辻原登さんの講演会】/ 【Lecture by Author TSUJIHARA Noboru】
10月9日、日本から作家の辻原登さんが来宇し、各地を廻るなか、リヴィウ国立大学でも講演会を開いて下さいました。当日は日本語の学生と先生を中心に大教室一杯の聴衆が集まりました。
辻原さんは若い頃からゴーゴリの作品に魅せられており、今回の初めてのウクライナ訪問をとても楽しみにしていたとのことで、リヴィウののち、キエフ(キーウ)やゴーゴリの故郷ポルターワへもいらっしゃるとのことでした。
また、『ドン・キホーテ』と『源氏物語』とを非常に高く評価しており、前者は小説のあらゆる可能性を内包しているので、学生の皆さんも読むようにと仰りました(日本語の学生ですので、『源氏物語』も当然お勧めされました)。また、『ドン・キホーテ』と『源氏物語』の融合からおもしろい小説が生まれるのではないか、と示唆されました。
聴衆からは活発に質問が出されました。作家になった動機について尋ねられた辻原さんは、小説を書く動機は作家にとっては不明なもので、恋愛のようなものだとお答えになりました。また、文学とは「~のために」書かれるものではないのだ、ということも仰りました。
物語舞台に外国が現れる作品がしばしばあるのは、物語が(登場人物が)日本という枠に留まることができないからであり、自由に躍動するための空間が必要であるからだとのことでした。また、作品背景が歴史上のある時代であったりするのは、千年前の人間が何をどう考え愛し合っていたのかを考えるのがおもしろいからであり、また、ヨーロッパ的絶対時間を超えたいとの考えがあるからだと述べられました。
小説は基本的にファンタジーであるが、ファンタジーを支えるのは磨き抜かれた文章の力であり、文章そのものが正確であることが大事である。その意味で、「完璧な嘘」をつきたい、とも仰りました。
On October 9, Mr. Tsujihara Noboru, a writer from Japan, held a lecture at Lviv University as he traveled around Ukraine. On the day of the event, the large classroom was filled with an audience of Japanese department students and teachers.
Mr. Tsujihara has been fascinated by Gogol’s works since he was young, and was very much looking forward to his first visit to Ukraine. After Lviv, he plans to visit Kyiv (Qiu) and Gogol’s hometown, Portava.
Mr. Tsujihara also spoke his praises for ‘Don Quixote’ and ‘The Tale of Genji’ and said that the former encompasses all the possibilities of a novel, and should be read by students (as they are Japanese language students, ‘The Tale of Genji’ was also recommended). He also suggested that a fusion of ‘Don Quixote’ and ‘The Tale of Genji’ could lead to an interesting novel.
The audience asked many questions. When asked about his motives for becoming a writer, Mr. Tsujihara replied that motives for writing novels were unknown to writers themselves, and likened the process to love. He also said that literature is not something that is written “for the sake of something”.
He said that the reason why so many of his works use foreign countries as a setting is that the story (and its characters) cannot remain within the framework of Japan, and that there is a need for a space to move freely. He also said that his works are set in specific historical periods because it is interesting to think about what people thought and how they loved each other 1000 years ago, and that he wants to surpass the European idea of absolute time.
Mr. Tsujihara discussed how a novel is basically a fantasy, but what supports this fantasy is the power of refined writing, and so it is important that the writing itself is accurate. In that sense, he also said that he wants to tell the “perfect lie”.

また、折しも即位礼の直前の訪問でしたのでそういった話題にも触れましたが、著作のなかで美智子皇后陛下が皇太子殿下(今上天皇)にお勧めされたのが、大逆事件を扱った小説『許されざる者』であった、というエピソードをお話されました。
リヴィウ大学で日本語専攻があるのは文学部であり、多くの学生が文学に興味を持っているので、非常に興味深く聞くことができたと思います(質問の多さがそれを物語っていたと思います)。残念ながらウクライナでは辻原登作品が入手困難のため(ウクライナ語訳も出ていません)作品を読んだことのある学生がいなかったのですが、作品を読めば講演で聞いたことがより実地に、具体的に腑に落ちるのではないかと思いました。
辻原さんにウクライナが気に入ってもらえたらよいなと思います。
As Mr. Tsujihara’s visit was just before the enthronement ceremony, he also touched on this, and told an anecdote of how Empress Emerita Michiko recommended his novel “Yurusarezaru Mono”, a novel about the High Treason Incident, to the Crown Prince (current Emperor).
The Japanese department at Lviv University is in the Faculty of Letters, and many students are interested in literature, so I think they were able to listen with great interest (I think the number of questions demonstrated that). Unfortunately, it is difficult to obtain Noboru Tsujihara’s work in Ukraine, so there were no students who had read his work (there are no Ukrainian translations), but I thought that reading his work would make what they heard in his lecture more practical and concrete.
I hope Mr. Tsujihara enjoys Ukraine.

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辻原登さん(中央)との記念撮影 / Mr. TSUJIHARA Noboru (Center)

【弁論大会 / Speech Contest】
10月19日、キエフ国立言語大学で第24回日本語弁論大会が開催されました。リヴィウ大学からは3年生のイーンナ・ストクラートナさんが「子供っぽい人」についてのスピーチを携えて参加しました。イーンナさんは、「子供っぽい」というのを「いい加減」とか「気分屋」といった悪い意味で言うのではなく、子供の持つ好奇心や新鮮な感受性、未知のものを怖れない勇気に読み変えていけば、世界はもっと優しく、自由なものとなるのではないか、と訴えました。
夏休み前から練習をしてきましたが、結果は、見事全国4位に入賞しました。9月から10月にかけて目に見えて上達したので、毎日よく練習したのだと思います。また、担任のウリャーナ先生や同級生のみんなが質疑応答の練習に積極的に協力してくれました。入賞おめでとうございます。
On October 19, the 24th Japanese Speech Contest was held at Kyiv National Language University. Third-year student Inna Stokratna from the University of Lviv gave a speech on “Childish People”. Inna argued that the world would become more gentle and free if we could use the word “childish” to mean children’s curiosity, fresh sensitivity, and the courage to not be afraid of the unknown, instead of as its current usage meaning “irresponsible” or “moody person”.
Inna has been practicing her speech since before the summer vacation, and as a result, she took fourth place in the whole country. I think she practiced well every day, because she improved noticeably from September to October. In addition, our homeroom teacher, Ms. Ulyana, and all her classmates actively helped her with the Q & A practice. Congratulations on winning.

【和太鼓・尺八コンサート / Japanese Drum and Shakuhachi Concert】
10月22日、今上天皇陛下の即位の礼に合わせて、日本国大使館が主催する和太鼓と尺八の演奏会がマリーヤ・ザニコヴェーツィカ記念国立アカデミー・ウクライナ・ドラマ劇場(リヴィウ市、レーシャ・ウクライーンカ通り1番地)で催されました。今回の演奏会は、リヴィウ市のみでコンサートが開かれました。コンサートに先立ち、倉井高志大使が全文ウクライナ語でスピーチを述べられ、大変感銘を受けました。
和太鼓奏者・谷口拓也さんと尺八奏者・小濱明人さんが、伝統的な曲目とオリジナル曲を披露して下さいました。力漲る演奏に圧倒されました。また、初めて和楽器を目にする聴衆に対し、楽器の説明もして下さいました。
リヴィウ大学の日本語の学生や先生方も大勢聞きに行きましたので、おもしろかったのではないかと思います。個人的には、田楽の演奏が一番気に入りました。
即位記念の行事が(首都ではなく)リヴィウで開催されたことは、より幅広い多くのウクライナ人が日本文化に触れることができるようにとの配慮からなされたことで、今後ともウクライナ各地でおもしろい行事が広がっていくとよいですね。
On October 22, to coincide with the enthronement ceremony of the new Emperor, a concert of Japanese drums and shakuhachi (bamboo flute) was held by the Japanese Embassy at the Maria Zankovetska National Academic Ukrainian Drama Theater (Lesia Ukrainka street, 1, Lviv). This concert was held only in Lviv. Prior to the concert, Ambassador Takashi Kurai gave a speech in Ukrainian, which was very impressive.
Taniguchi Takuya, a Japanese drum player, and Obama Akihito, a shakuhachi player, performed traditional and original music. I was overwhelmed by the powerful performance. They also explained the instruments to the audience who had never seen them before.
Many Japanese department students and teachers from Lviv University also went to listen, so I think it was interesting. Personally, I like the Dengaku (ritual music) performance the best.
The fact that this event was held in Lviv (which is not the capital) was something done out of consideration to allow a wider range of Ukrainians to experience Japanese culture, and I hope that interesting events will continue to be held in various parts of Ukraine.

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10月30日は学園祭のようなチャリティーバザールが開かれました。文学部のブース。/ A charity bazaar was held on October 30, just like a school festival. This is the Faculty of Letters Booth

【参考リンク / Reference Links】
「倉井大使夫妻 第24回ウクライナ日本語弁論大会に出席」在ウクライナ日本国大使館ホームページ [https://www.ua.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_001521.html] (原稿作成日閲覧、以下同じ)。
「倉井大使夫妻 和太鼓・尺八コンサートを開催」同上 [https://www.ua.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/00_001524.html]。
同コンサートに関するリヴィウ市議会の記事 [https://city-adm.lviv.ua/news/culture/272015-lviv-pryimav-kontsert-iaponskoi-muzyky-za-uchastiu-inozemnykh-muzykantiv]。


2019年9月 活動日誌 / September 2019 Activity Report

2019年9月30日 / September 30, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【サマースクール / Summer School】
今年も、リヴィウ大学に4名の留学生がやって来て、9月初めから3週間行われる本学留学生のためのサマースクールに参加しました。今年は、佐野智仁さん、田上凛太郎さん、豊島愛子さん、下村莉央さんが参加してくれました。専攻言語は中国語、モンゴル語、ロシア語と、実に多種多彩なメンバーでした。
This year, as in previous years, four exchange students came to Lviv University to participate in the three-week Summer School program held for international exchange students from the start of September. This year’s participants were SANO Tomohito, TANOUE Rintaro, TOYOSHIMA Aiko and SHIMOMURA Rio. Their majors are Chinese, Mongolian and Russian, so they are a really diverse lineup.

サマースクールはその主要科目であるウクライナ語の授業のほか、ウクライナの文化史、ウクライナ文学、ウクライナ語の歴史に関する講義が行われました。また、糸巻き人形「モータンカ」作りと、ウクライナの家庭料理の体験教室が催されました。ハレィチナー青少年創作センターの講座の見学もありました。休日には、ウクライナ各地や隣国に旅行したり、市内を散策・観光したりしていたそうです。
Aside from the main subject of Summer School, Ukrainian language, there are also classes on Ukrainian culture and history, Ukrainian literature and Ukrainian etymology. In addition to this, traditional “motanka” doll-making classes and Ukrainian home cooking workshops were held. Students also observed a course taught at the Centre for Culture and Creativity for Children and Youth in Halychyna (Galicia). On the weekends, the students travelled around Ukraine and its neighboring countries, and it seems they even explored and did sightseeing locally in Lviv.

滞在の上でのトラブルもあったのですが、最終的には無事に科目を修了することができました。最終日には、文学学部長のスウャトスラーウ・ペィレィプチューク先生から修了証を一人ひとり手渡されました。
While the students did encounter a few troubles during their stay, they were able to finish the program without a hitch. On the last day, the students were awarded one by one with a completion certificate by the Dean of the Faculty of Philology, Svyatoslav Pylypchuk.

リヴィウ大学の日本語専攻の学生も、日本からの留学生との交流を大変喜んでいました。
Students majoring in Japanese at Lviv University were also pleased to meet the Japanese exchange students.

【本の市場 / Book Market】
毎年恒例の本の市場、第26回ブックフォーラムが9月18~22日に開催されました。主会場は、リヴィウ芸術会館と、隣接するポトツキ館の敷地ですが、市内各所(ホームページによると30箇所)に会場が設けられたとのことです。
This year, the 26th Book Forum, a book market held every year, was held from September 18-22. The market was mainly held on the grounds of the Lviv Art Palace and the Potocki Palace next door, but there were many other venues around the city (30 according to the Book Forum website).
このイベントでは、ウクライナ各地と周辺諸国からいろいろな出版社が集まるだけでなく、本を通常販売価格より安く入手できるので、大変大勢の来場者で賑わいます。ウクライナの出版業界もインターネットなどに押されて苦境にあると思いますが(事実、図書館は利用者の減少などを理由に営業時間が短縮されています)、本好きな人はそれでもまだ多いように見えます。
This event is always bustling with people, as not only do publishers from neighboring countries gather here, but the books themselves are also sold at a lower price than usual. Despite the Ukrainian publishing industry being in a bit of a predicament due to the internet (libraries in Ukraine have actually decreased their opening hours due to lack of visitors), this event makes it seem like many people still enjoy reading books.
また、児童書(絵本など)が年々充実し、絵柄もどんどんかわいくなってきているのに気づきました(かわいいというのは主観ですが)。また、リヴィウという土地柄もあるのか、かつてはウクライナのどこでもよく見られたソ連的(ロシア的とでも言うのでしょうか)絵柄が見られなくなったように思われました。児童書にはかなり大きなスペースが割かれており、児童書専門の出版社も幾つかあるようでした。ウクライナ人(大人)は自分では本を読まないが、子供のためには本を買う、という話もあります。
I also noticed that children’s books (picture books etc.) have been performing strongly over the years, and the designs have become cuter and cuter (this may just be my personal opinion though). I think that the once-popular soviet style of design (perhaps this is called Russian style?) has fell out of fashion and been replaced by a more local Lviv-inspired style. The children’s books were spread out across a rather large space, and there were many publishers who seemed to specialize in them. I also heard that most Ukrainian adults don’t read books, but buy them for their children.

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ブックフォーラム_ポトツキ館敷地の出店 / The Book Forum at the Potocki Palace grounds

【参考リンク】/ Reference Links
第26回ブックフォーラムのホームページ / 26th Book Forum Website [https://bookforum.ua/forum-vydavtsiv/] (2019年9月30日閲覧).


2019年8月 活動日誌 / August 2019 Activity Report

2019年8月31日 / August 31, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ大学近所の様子】
リヴィウ市には、ルーシ王国時代の城下町(元レィーノク)、その後中世から近世にかけて作られた市街地(レィーノク)、その周辺に作られた近代のオーストリア時代や20世紀前半のポーランド時代の町並みがあります。リヴィウ大学は、レィーノクのある旧市街から自由大通り(かつてのポールトワ川)を跨いで西側に作られたオーストリア時代の一角にあります。観光客の多くは旧市街から大学の辺りを巡っていて、大学より北には行かないので、今回はそちらを少し紹介します。
大学の北を東西に走るホロドーツィカ通りをやや西に行ったところに、聖アンナ教会があります。16世紀に建てられ、その後焼失しますが再建と改築を繰り返して現在に至ります。ソ連時代には家具屋にされていましたが、1992年にウクライナ・ギリシア=カトリック教会の教会堂となりました。
その近くには、昨年100周年を迎えた11月決起(2018年11月の日誌参照)のために建てられた記念碑、「11月蜂起英雄の碑」(Пам’ятник Героям Листопадового чину)があります。ライオンが盆踊りをしているように見えますが、これはリヴィウの紋章(リヴィウ市章および西ウクライナ人民共和国の国章)を立体化したものです。もう一つの手の形の記念碑(11月の日誌参照)の方はこの失敗した決起の怨念が籠もっているような造形でしたが、こちらはより愛嬌があるように思われます。裏側から見ると、普通絶対に見られない「紋章の裏側」が見られますね。足元には、イワーン・フランコーの『ふかき淵より。讃歌』(«De profundis. Гімн», 1880)または『永久の革命家』(«Вічний революціонер»)と呼ばれる詩の一節「慟哭せず、獲得する」(«Не ридать, а добувати»)がレリーフされています。このフレーズは、西ウクライナ人民共和国の成立に貢献したウクライナ・シーチ銃兵隊の円形章にスローガンとして用いられていたことから、記念碑に記されました。また、小さな人物像のレリーフもありますが、それは1918年11月1日に市庁舎にウクライナ国旗を掲揚したグループの一人、ステパーン・パニキーウシケィイ(Степан Паньківський, 1899–1919)の肖像であるとのことです。

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11月決起英雄の碑

大学から聖アンナ教会に向かう途中に、赤レンガの建物があります。元は聖アンナ教会の付属学校だったようですが、現在はリヴィウ法科ギムナジウムとなっています。
その脇の、作曲家メィコーラ・レオントーヴィチ(Микола Леонтович, 1877–1921)の名が付いている通りに入ると、行き詰まりに独特の緑瓦の屋根を持つ塔が見えてきます。よく見ると、塔には「ダヴィデの星」の装飾があるのがわかります。これは、現在は公営第三市立診療病院の産科(ヤーキウ・ラポポールト通り8番)として使われていますが、元はユダヤ人のための病院として建てられました。1899年の設計で、ネオムーア様式(本当のムーア様式を模した、市民社会の建築様式)となっています。当時、オリエント風の建築がブームでしたが、リヴィウでは大変珍しいです。設計者は、4月に紹介しましたイワーン・レヴィーンシケィイ(Іван Левинський, 1851–1919)です。

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公営第三市立診療病院

病院を左に曲がると、公園になっている丘が見えてきます。一見のどかですが、その名は刑場山(Гора Страт)です。18世紀には、ポーランドやユダヤ人、並びにロシア帝国に対するウクライナの独立運動を起こしたハイダマーカたち(Гайдамаки)がここで処刑されました。オーストリア帝国時代には、ポーランドのロシア、オーストリア、プロイセンからの独立を目指すクラクフ蜂起(1846年)を起こしたポーランド民主団(Towarzystwo Demokratyczne Polskie)団員が処刑されました。現在も、処刑されたテオフィル・ヴィシニョフスキ(Teofil Wiśniowski, 1805/06–1947)とユゼフ・カプシチンスキ(Józef Kapuściński, 1818–47)の追悼碑が立っています。
丘の脇のクレパーリウシカ通りをさらに北に行くと、リヴィウ名物のビール工場があったり、市民プールがあったりします。

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【参考リンク】
Франко І. De profundis. Гімн. [https://i-franko.name/uk/verses/zvershyninyzyn/gimn.html] (2019年9月5日閲覧).
11月蜂起英雄の碑を製作した彫刻家のインタビュー記事 [https://wz.lviv.ua/news/382479-ne-treba-shukaty-putina-tam-de-ioho-nemaie]


2019年7月 活動日誌 / July 2019 Activity Report

2019年7月31日 / July 31, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

今回は留学について紹介をします。

【留学プログラムの概要】
本学とリヴィウ大学との交換留学制度は2017年より始まり、本学からはすでに7名がリヴィウ大学に留学しています。リヴィウ大学が本学の留学生のために提供してくれる留学プログラムの名前は、「ウクライナ語及び文化との邂逅」(«Знайомство з українською мовою та культурою»)となっています。本年9月に3回目の留学生4名が来てくれることになっています。
本学における募集は、まず約1年間(9月~6月ないし7月頃まで)の長期留学の募集が行われ、希望者がいない場合は短期留学(9月第1月曜~第3金曜)の募集が行われています。長期留学は1名、短期留学は3名まで学費が免除されますが、それ以上の希望者も有償で留学できます。参考までに、短期留学の学費は例年ですと4万円程度でした(支払いは現地通貨であり、金額には変更が生じる可能性があります)。
一方、リヴィウ大学からは毎年1名、本学へ長期留学生が派遣されています。もしかしたら、皆さんのなかに友達になった人もいるかも知れません。
※ここで紹介する情報は基本的に過去の実施に基づくものであり、毎年若干状況が異なる等、必ずしも将来の実施内容に合致するかどうかは保証できかねます。あくまで留学のイメージをつかむための参考として下さい。

【短期留学期間・カリキュラム】
例年、9月の平日3週間に設定されています。2019年度は9月2日(月)~20日(金)となっています。曜日によって決まるため、年によって日付は変わります。
通常、午前中にウクライナ語の授業2コマ、午後はその他の科目や体験教室が行われます。時間割については、昨年度の留学生に配布された時間割を例として掲載します(時間割は敢えてウクライナ語で作成されているので、解読してみて下さい)。
土日は休みです。日程はある程度融通が利きます(要相談)。休みを利用してほかの町に旅行したりすることもできます。これまでの留学生は、キーウ(キエフ)に行ったり、オデーサ(オデッサ)に行ったりしていたようです。リヴィウ近在の日帰り旅行もおすすめです。

【短期留学で学べること】
例年、ウクライナ語(授業は毎日)、ウクライナの歴史、ウクライナ語の歴史、ウクライナの民俗学(口承文学)、ウクライナの文学の授業が設定されてきました。また、これまで体験教室として、ウクライナ料理教室、紐編人形作り、カルチャーセンター、市街地の見学(学生または教員による案内)などが実施されています。
なお、講師の先生は原則としてボランティアで教えて下さっていることもあり、また施設の都合・天候等もあり、年によっては様々な事情によって科目やプログラム内容に変更があり得ます。ご了承下さい。

【滞在について】
大学の寮が提供されます。施設は年によって異なる場合があります。
現地では、ウクライナ語のほか、若者のなかには英語のできる人も少なくありません。それ以外に、ロシア語やポーランド語のできる人もいます。戦争で逃げてきた人がいることもあり、ロシア語人口はやや増えたように思われます。また、リヴィウ大学には日本語専攻があるので、日本語のできる学生がたくさんいます。ぜひ友達になって下さい。
食事については、昼食は学食が安価に利用できます。市内には随所にスーパー、コンビニ、日用品や食料品、衣料品店などがあります。ファミレスやファーストフード店もあります。観光都市ですので、短期滞在のために必要なものはたいてい入手可能です。現地で入手できないような「こだわりのもの」は持参した方がよいですが、それ以外はあまり心配はいらないと思います。
市内交通は、電気交通(市電、トロリーバス)、路線バスがあります。寮から大学への交通手段は、寮の施設によって異なってくるため(施設は市内のあちこちにあります)、毎年施設が決まってからご案内しています。リヴィウ大学の先生方が毎年できる限り条件のよい施設を提供してもらえるよう寮の管轄部署等と交渉して下さっていますが、必ずしも理想的な素晴らしい条件の施設を提供できるとは限りませんので、「寮暮らしも留学の勉強のうち」と思ってご了承いただければ幸いです。
街の治安は悪くありませんが、車内のスリには厳重にご注意下さい。特に、財布やスマートフォンは狙われやすいです。そういったものは、できるだけ車内や人混みでは出さない方がよいでしょう。
戦争に関しましては、例えば前線近くの都市マリウーポリまで、リヴィウからは寝台急行列車で2晩かかる距離にあります。今どき世界のどこにいても完全に安全という場所はないと思いますが、リヴィウは少なくともこれまでのところ他のヨーロッパ諸国と比べても特に危険な雰囲気は感じられないと思います。

本学からの留学生は大変歓迎されていますので、皆さんもぜひ留学を考えてみて下さい!

(参考)

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2018年度時間割
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ウクライナ語授業の様子(2017年度)
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人形作りの体験教室の成果(2018年度)
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第8寮(2019年度に利用が予定されている寮)

2019年4月 活動日誌 / April 2019 Activity Report

2019年4月30日 / April 30, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【イワーン・レヴィーンシケィイ。衝動】
建築の写真展、「イワーン・レヴィーンシケィイ。衝動」展(«Іван Левинський. Імпульс», キュレーター:パウロー・フディーモウ氏)があったので、会場の火薬塔まで見学に行きました(入場料50 UAH、無料開放日あり)。
19世紀末と言いますと、ヨーロッパを破壊と建設の狂騒が覆った時代で、市壁が取り払われるとともに前近代の建造物が取り壊され、市民階級によって新しい建築物が次々に造られたのでしたが、その変化著しいウィーンを都とするオーストリア帝国に属した西ウクライナもまたその渦中にありました。イワーン・レヴィーンシケィイ(Іван Левинський, 1851–1919)は、この時代に活躍したウクライナ人の建築家です。今年がこの建築家の没後100年に当たることを記念し、展覧会が催されました。この人物はハレィチナー(ガリツィア)地方の建築企業家として工房を主宰したことで特に知られており、1881年の工房設立から1910年代にかけてリヴィウ市内だけで数百件の建築に携わりました。今日でも、リヴィウでは彼の設計または施工による物件をいくつも見ることができます。
残念ながら筆者は教養がないので彼の建築の特徴とその意義についてきちんと説明することができないのですが、展覧会の解説を元に、表面的になりますが説明を試みたいと思います。
イワーン・レヴィーンシケィイは、カルパティア山脈沿いの小都市、ドレィーナ(Долина, 現イワーノ=フランキーウシク州の市)に生まれました。学業を続けるためリヴィウに移住し、1874年に帝立王立技術学士院(アカデミア。帝立王立はオーストリア皇帝とハンガリー王のこと。のち高等工科学校、今日のリヴィウ国立工科大学)を卒業しました。折しもヨーロッパでは歴史主義と民族主義が開花した時代で、レヴィーンシケィイの建築も自民族の文化とその歴史を見直すという観点からその影響を濃く受けたものとなりました。同時に、ウィーン分離派(ゼツェシオン)の新しい建築潮流の影響も受けております(そもそもリヴィウ市街にウィーンの街並みと似た部分のあるのは、分離派の活動による面も少なからずあります)。分離派以前の19世紀建築のいかめしいデザインに対し、彼の建築には荘厳さとは別の洒脱な装飾が施され、いかにもアール・ヌーヴォー調の柔らかく有機的なデザインが特徴で、建物全体にかわいらしさや親しみを感じられると思います。
大規模事業としては、市立大劇場(1897–1901, 今日のリヴィウ国立歌劇場)、リヴィウ駅新駅舎(1902–1904, 今日の本駅舎)、地方財団の建てた病院群の建設に携わりました。20世紀初頭にはウクライナ人や団体からの発注が相次ぎました。その中でも特に代表作として知られるのが保険会社「ドニステール」のビル(1905–06, 現在の公営第一病院)で、カルパティア山脈のフツール地方の意匠を取り入れたデザインが光ります。ルーシ教育協会の寄宿舎、メィコーラ・レィーセンコ記念音楽協会の建物も彼の工房によるものです。一大事業となるはずだったウクライナ劇場の建築は、ポーランド人団体の反対もあって実現せず設計図のみを残しました。映画館も数多く建設しましたが(1990年代までリヴィウには無数の映画館がありました)、そのうちの一つ「サン・リヴァル」は今日でも営業を続けていて(現在の名称は「コペルニクス」)、ウクライナで現役最古の映画館となっています(なお、先月見たところ、修繕工事を行っていて一時営業を休止しているようでした)。ほかに、集合住宅や個人向け邸宅も多く手掛けました。
宗教界との繋がりもありした。ウクライナ・ギリシア=カトリック教会の府主教アンドレーイ(シェプティーツィケィイ)宛の手紙が複数残されており、府主教に対し、ウクライナの愛国者、ウクライナの庇護者としてウクライナの学生へ支援を賜るよう求めたりしています。仕事の上でも、府主教館や聖オヌーフリイ修道院(昨年8月の記事に写真を掲載しました)の修復事業、当時はウクライナ人の町であったペレーメィシュリ(現ポーランド共和国、プシェムィシル市)の神学校(セミナリオ)建設などを請け負っています。
1885年10月には、レヴィーンシケィイの工房は建築資材を製造する工場(こうば)を開設し、その後30年にわたり、建築ラッシュのリヴィウへ多種多様な建材を提供しました。
高等工科学校教授でもあったレヴィーンシケィイは、その実用建築学科長を務めました。彼は、最も費用対効果の高い設計が最も合理的な設計であるという信念を持っていました。経済性と論理性の面から実用性を追求することに彼の関心はあり、居住者にとっての内部空間の快適性を重視すべきだと考えていました。
企業家にして教養ある技術エリートである彼は、ハレィチナーのウクライナ人社会の名士として、協会「プラーツャ」(「仕事、作品」の意味)も設立しました。
しかし、建設の時代は過ぎ、破壊の時代が再来します。第一次世界大戦が始まり、息子のステパーン(Степан Левинський, 1897–1946)にはオーストリア軍への召集が掛かりました。彼は戦場で健康を害するものの生還し、のち東洋学者として知られることになります。彼についてはいずれ日本でも紹介されるでしょう。戦中、リヴィウはロシア軍によって占領され、ウクライナ人社会と社会的著名人らは大きな圧迫を受けます。レヴィーンシケィイの工房も家宅捜索を受け、閉鎖命令が下されました。レヴィーンシケィイは、ほかの企業人や銀行家ら名士とともにロシア軍の人質に取られました。
1918年3月、旧ロシア帝国領であった(1917年11月以降ウクライナ人民共和国首都)キーウ(キエフ)からプラハ経由でリヴィウへ帰還したレヴィーンシケィイは工房を再開しようとします。彼は、職人たちに安い食事を提供して燃料も援助しました。
同年11月22日、ウクライナ軍とポーランド軍の戦闘の末リヴィウはポーランド軍によって占領されますが、ポーランド政権への忠誠を誓う書類にサインするよう迫られたレヴィーンシケィイはこれを拒否し、その結果、教職を失います。こうした不幸が重なった結果、健康状態は悪化し、1919年7月4日、永眠しました。
展覧会では、レヴィーンシケィイの生涯と、その背景となったウクライナ及びヨーロッパ諸国の社会状況が並行して解説され、彼を取り巻く世界を立体的に知ることができるよう工夫されていました。現存する建物の美しい写真のほか、設計図や手紙なども展示されていました。また、映像展示や彼の書斎の際限展示、磁器コレクションの展示もありました。
今日、人々の無関心と無法、経済事情などにより、レヴィーンシケィイの建築は劣化と崩壊が進んでいます。展覧会開催者の意図の一つは、人々に彼の建築を再認識してもらい、その保全に関心を持ってもらうことであるとのことでした。彼の代表作である旧「ドニステール」社屋は、ちょうど修復工事中でした(足場で覆われて建物が見えません)。

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ウクライナ人劇場の建築模型(1901年、紙製)
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展示の様子。中央は写真を元にした書斎の復元

【参考資料】
展覧会場内写真撮影は受付に許可を得ました。
展覧会ホームページ [https://www.facebook.com/events/рік-івана-левинського/відкриття-виставки-іван-левинський-імпульс/907681699623295/] (2019年4月1日閲覧).
キュレーターによる紹介記事 [http://yagallery.com/exhibitions/ivan-levinskij-impuls] (同上).


2019年3月 活動日誌 / March 2019 Activity Report

2019年3月31日 / March 31, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【クリミア関連の催し】
3月19日、文学部において、クリミア関係の催しがありました。ドキュメンタリー映画『クリミアを超えて』(«Більше, ніж Крим», 2018)の上映と、サフィナル・ジェミーリェワ(Сафінар Джемілєва)さんの講演です。クリミア・タタール人であるジェミーリェワさんは、同じくクリミア・タタール人の活動家で法律家、ウクライナ最高会議(国会)の現職代議士(2014以降)であり、クリミア人民会議(メジュリス)初代議長も務めた(1991–2013)ムスタファ・ジェミレウ/ムスタファー・ジェミーリェウさん(Mustafa Cemilev, Мустафа Джемілєв, 1943生)のご夫人で、ご自身もクリミア・タタール婦人連盟長を務めています。催しにはほかに、イスマイル・ガスプラル記念地政学研究所所長ナリマン・ウスターイェウさん(Наріман Устаєв)、ドキュメンタリーの脚本家フリナラ・ベキーロワさん(Гульнара Бекірова)が参加されました(各位のご氏名は本来クリミア・タタール語名で表記するのが最善と思いますが、筆者が同言語に詳しくないため、便宜上ウクライナ語名で表しています)。
ドキュメンタリーは、在ウクライナ・アメリカ合衆国大使館の資金援助を受けたプロジェクト「著名なクリミア・タタール人」(«Видатні кримські татари»)によって作成されました。今回は作品から2部が上映されました。

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上映会の様子
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サフィナル・ジェミーリェワさんとペィレィプチューク文学部長

【クリミアの言語学者】
前半は、20世紀初頭に活躍したクリミア・タタール人のテュルク学者で言語学者のベキル・チョバンザデ氏(Bekir Çobanzade, Бекір Чобан-заде, 1893–1937)について、その時代背景を交えながら紹介しました。この人物は、トルコ(当時はオスマン帝国)のイスタンブル大学とハンガリー(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)のパーズマーニ・ペーテル大学(現エトヴェシュ・ロラーンド大学、通称ブダペシュト大学)で学位を取得した、当時としては最も高い教養を持ったクリミア・タタール人の一人でした。ブダペシュト大学およびスイスのローザンヌ大学で教鞭を執りました(のち教授)。1921年にクリミア自治ソヴィエト共和国の樹立が宣言されると、その中央執行委員会の委員に選出されました。1922年からクリミア大学(現タウリダ国立大学。1918年、ウクライナ国政府によりシンフェローポリ市に開かれた大学)の東洋学科で教授として働き、1924年には招聘を受けてアゼルバイジャンに移住し、バクー大学東洋学部長として、テュルク語方言学、比較テュルク学、アゼルバイジャン語及び文学教授法などを教授しました。
その研究生活のなかで、特に1303年頃のクマン語の古文書である『クマン文書』(“Codex Cumanicus”)、突厥文字(オルホン文字)や古ウイグル語の書物に取り組み、テュルク学の発展に大いに寄与しました。1925年にバクーで開催された第1回テュルク学大会に参加し、新テュルク語アルファベット委員会でも活動しました。
1928年、ソ連において多様な意見への弾圧が強化されると、彼もまた迫害を受けるようになりました。民族主義思想(汎テュルク主義)のプロパガンダ煽動者として非難されたチョバンザデ氏は、ウズベキスタンに移住しました。政治的理由から故郷クリミアへ帰ることができなかった彼は、尽きせぬ望郷の念を詩に表しました。
学者としての大きな業績にも拘らず(むしろそれゆえに)、1937年、キスロヴォーツク(現ロシア連邦)でソ連当局によって逮捕されました。逮捕理由は、国民党(「ミッリイ・フィルカ」、“Milliy Fırqa”)を始めとするいくつかの民族主義的組織への参加と、汎テュルク主義宣伝の咎でした。控訴権のない裁判で死刑判決が下り、同年10月13日に処刑されました。

【クリミアの志士】
後半は、今日のクリミア・タタール人のリーダーであるジェミーリェウ氏の半生を記録したドキュメンタリーが上映されました。第二次世界大戦中の1944年5月18日、対独協力の嫌疑によってクリミア半島(当時ソ連領)のクリミア・タタール人が中央アジアへ追放させられたことは周知の事件ですが、幼少のジェミーリェウ氏も家族とともに家畜車に載せられてウズベキスタンに移住させられました。そのため、故郷への帰還は子供時代から氏の夢となりました。
クリミア・タタール人の大学進学が禁止されていたため、ジェミーリェウ氏は16歳でタシュケント航空機工場に就職します。ここで1960年代、「クリミア・タタール青年組合」に参加しました。ここから、氏は当局に目をつけられます。大学を退学させられ、軍に送られるなど迫害を受けながらも活動をやめなかった氏は、何度も逮捕・投獄を経験しました。その中で、抗議活動として303日間の断食も断行しました(口をこじ開けての強制摂取により断食は終わりました)。当時の抵抗活動について、氏の盟友であるメィロスラーウ・マレィノーヴィチ氏(Мирослав Маринович, 1949生、ウクライナ・ヘルシンキ・グループ創設者)は、マハトマ・ガンディーの活動に比して高く評価しています(映画中のインタビューでそう語っています)。
なお、1983年11月の投獄の際の罪状には、北方領土を巡る日本の立場を支持する声明(ラジオ録音)をNHKに対して送ったことも挙げられています。(今日、ロシア連邦によるクリミア併合とソ連邦による千島列島併合とを同列に論ずる発想はウクライナで珍しくなくなっていますが、1980年代にそうした発想を表したことは先駆的であったと思われます。)
一方、将来の夫人となるサフィナルさんがジェミーリェウ氏の活動を知って獄中の彼に手紙を送ったことから、やがて二人の交際が始まりました。投獄と次の投獄のあいだの釈放期間のほかは、獄中の文通によって二人の交際は続けられました。聞いたところ、検閲によって没収された手紙も少なくなかったとのことです。
ウクライナが独立してソ連が崩壊すると、クリミアでは1917年に開催されて以来となるクリミア・タタール民族会議、クルルタイが開かれました。(今回の催しでは、第1回クルルタイ100週年の記念硬貨がジェミーリェワさんから学部長に贈呈されました。)
ソ連がなくなったお蔭で故郷に帰ることができたジェミーリェウ氏でしたが、2014年のロシア連邦によるクリミア併合後、ロシアによって再びクリミアへの入境を禁止されており、自宅へ帰れない状態となっております。氏は写真では穏やかなご老人のように見えますが、その壮絶な生涯からは静寂のうちに怒りのマグマを溜めた不撓不屈の闘士であることがわかります。
2014年以降、多くのクリミア・タタール人が逮捕されて収容所に送られたり、行方不明になったり、暗殺されたりしているほか、一般人宅に対する家宅捜査も度々行われています。ジェミーリェワ夫人は、「今日、私たちのクリミアは恐怖と涙、苦しみの地となってしまいました。息をすることも、歩くことも、生活することもままならない空間になってしまったのです。なぜ私たちが皆さんのところへ映画を見せに来たか。それは、同じことがここで繰り返されないようにするためです」、「自由なウクライナとともに自由なクリミアがあるのです」と語りました。
ロシアによるクリミア併合は、ロシア人にとってはお祭りですが、クリミア・タタール人にとってはソ連による支配の再来にほかならないでしょう。

【まとめ】
ペィレィプチューク文学部長もご挨拶で述べられましたが、ロシアによるクリミア併合という現在の事件を眼の前にして、強制移住を始めとするクリミア・タタール人に対して過去ならびに今日まで行われてきた弾圧が、ウクライナ人にとっていよいよ現実味のあるテーマとなってきていると思われます。迫害され故郷を追われるという共通の経験によって、ウクライナ人とクリミア・タタール人は一つに結びつくのです。ただ、その一方で、クリミアに関する問題に興味のなさそうな候補が選挙で人気を集めるなど、やはりクリミアは他人事としか思っていない国民も少なくないのかなという気もします(尤も、だからこそこのような啓蒙的ドキュメンタリーが制作される意義があるのだとも言えます)。
歴史的なことを言えば、ウクライナとクリミア・タタール人の関係は宗教の違いもあり、必ずしも友好的なものではなかったのも事実です。かつてクリミア汗(ハン)の下、強大な国家を築いたクリミア・タタール人は、年中行事のようにウクライナの地(及びポーランド、リトアニア、ロシアなども)を侵略し、人狩りを行って人身売買をしたり(イタリアやオスマン帝国に輸出した)、身代金を取ったりして経済を成り立たせていました(クリミア汗国による人狩りについては、ロシアとの関係についてですが、松木栄三『ロシアと黒海・地中海世界――人と文化の交流史』風行社、2018年、123–153頁が詳しいです)。一方でクリミア汗国はウクライナの同盟者であったことも一度ならずあり、なかでもウクライナ独立の英雄ボフダーン・フメリネィーツィケィイ将軍がクリミア汗国の高官トハイ・ベイと盟友であったことはよく知られています。しかし、どちらかと言えば、ウクライナにとってクリミアは敵国であった時期の方が長かったと言えます。トハイ・ベイが死するや、クリミア汗がフメリネィーツィケィイを裏切りそのため彼の独立闘争が頓挫したことも忘れられてはいません。特に16、17世紀のウクライナ人の歴史的生活において、クリミア汗国との一進一退の攻防はその重要な部分を占めたと言えます。ウクライナの諸侯やコサックの武将の多くがクリミア相手の合戦で名を上げた一方、多くの名将がその戦場で命を散らしました。他方、クリミア汗国に抗する力のなかったモスクワ国家(ロシア)は17世紀末ないし18世紀まで年貢(ポミンキ、即ち「贈り物」と呼ばれる貢税)を収めたり身代金を払ったりして凌いでいましたが、18世紀までに防衛戦を構築してタタールの侵攻を阻止するとともに、対クリミア・タタール戦闘に長けたウクライナ・コサックを味方に引き入れることにより攻勢に転じ、1783年にはいよいよクリミア汗国を滅亡に追い込みます(しばしば誤謬がありますが、ロシアがウクライナをクリミア汗国の侵略から救ってやったというわけではありません)。
積年のクリミア・タタール人との戦いや虜囚、裏切りについては多くの民謡や文学で繰り返し描かれており、そのため、ウクライナ人の中ではこれまでクリミア・タタール人に対する同情心がやや薄かったのではないかという気もします。しかし、今日、ウスターイェウ所長が述べられた通り、彼らクリミア・タタール人は「クリミア・タタール人に起源を持つウクライナ人であり、ウクライナ国民である」のです。国民に一等も二等もありませんから、民族的ウクライナ人のウクライナ国民と同等の幸福をクリミア・タタール系ウクライナ人にも保障する義務がウクライナ国家にはあるはずであり、ウクライナがそれを実行するのか否か、ウクライナ国民一人ひとりに問われていると考えるべきでしょう。

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左から、ジェミーリェワさん、ウスターイェウさん、ベキーロワさん

【参考資料】
本稿のうち、催しに関する説明は以下2つのリヴィウ大学ホームページの記述を参考に作成しました(2019年4月1日閲覧)。歴史問題に関する記述は違います。
«Більше, ніж Крим»: відбулася презентація документальних фільмів про відомих кримських татар (大学サイト) [http://www.lnu.edu.ua/bil-she-nizh-krym-vidbulasia-prezentatsiia-dokumental-nykh-fil-miv-pro-vidomykh-kryms-kykh-tatar/].
Неймовірні історії про видатних кримських татар: презентація проекту «Більше, ніж Крим» (文学部サイト) [http://philology.lnu.edu.ua/news/neymovirni-istorii-pro-vydatnykh-kryms-kykh-tatar-prezentatsiia-proektu-bil-she-nizh-krym].
クリミア・タタール民族会議「クルルタイ」開催:何が話され、何が決められたか(クルルタイの活動の近況を伝える通信社「ウクルインフォールム」の記事) [https://www.ukrinform.jp/rubric-polytics/2580314-kurimiatataru-min-zu-hui-yi-kururutai-kai-cui-hega-huasare-hega-juemeraretaka.html].


2019年2月 活動日誌 / February 2019 Activity Report

2019年2月28日 / February 28, 2019
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ市の電気交通】
リヴィウ市内の公共交通は、大きく分けて、バス交通と電気交通に分けられます。これ以外に、ウクライナ鉄道の中距離列車も市内の輸送の一端を担っていますが、停車場の数と運行本数の少なさから推測するに、市内公共輸送におけるその役割は限定的であり、前二者の担う役割が大きいと断言できるでしょう。
このうち、電気交通を担っているのが、リヴィウ公共企業「リヴィウ電気交通」(「リヴィウエレクトロトラーンス」)です。同社は、その名の通り、市街電車(路面電車)と無軌条電車(トロリーバス)という、二種類の電気交通路線を運行しています。
リヴィウ市内には、有限責任会社「エレクトローン輸送」(「エレクトロントラーンス」、親企業の名から「エレクトローン」と略称されるのが普通)や株式会社「リヴィウバス工場」(略称LAZ、ラーズ)といった輸送車両メーカーがあるのですが、リヴィウ市が地元産業育成をあまり重視していないおかげで、国内外の様々なメーカーの車両を見ることができます。

【リヴィウ電気交通の特殊車両たち】
さて、今回は初めから特殊で突然ですが、リヴィウ電気交通社の保有する特殊車両を一部、紹介したいと思います。なお、今回は文量の関係で事業用車のみで、保存車両は除外します。

【ウクライナ版ササラ電車】
1枚目の写真は、函館や札幌の方はお察しがつくかもしれませんが、北国名物「ササラ電車」です。SKh-2型(СХ-2)除雪車です。前のブラシ状の部分を回転させて除雪を行います。モーター付きで自走します。
型式のアルファベットは、「ハールキウ製除雪車」(Снігоочисник Харківський)の略号です。1952年から1963年のあいだに26両以上製造されました。写真のS-002(С-002)号車の製造年は少し調べたのですがよくわかりませんでしたが(工場番号は12)、リヴィウ電気交通社が所有する同型車3両のうち、S-003号車は1954年製とのことです。

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SKh-2型雪かき車S-002号車

【砂まき電車】
写真2、3枚目は、通常の路面電車を改造した砂撒き車(Піскопосипальний вагон)です。砂撒き車というのは、その名の通り、軌道上に砂を撒くための専用車両です。なんでそんなことをするのかと言いますと、車輪とレールは金属同士で粘着性が低い(滑りやすい)上に、路面電車の軌道上には落ち葉や街のゴミなど滑りやすい障害物が落ちていることがあり、車輪が空転しかねないので、砂を撒いて滑り止めにするのだと思います。
この005号車の種車は、以前リヴィウ市電で旅客輸送に使用していたタトラT4SU型(Tatra T4SU)電車です。同型はチェコスロヴァキアの「ČKDタトラ」社製の路面電車で、現在では旅客輸送用としてはリヴィウ市電から引退しています。本車は1976年に製造されリヴィウ市電の848号車として旅客運用されたのち、2002年から砂撒き車として運用されているそうです。
運転台の後ろの客室部分をすっぱり切り取って、砂撒き装置を搭載しています。構造上、ホッパ車とも言えるでしょう。ときどき見かけますので、町中を元気に走り回っているようですが、どう見ても車体が思いっきり歪んでますね(笑)砂の重みのせいか、フレームごと歪んでいるようにさえ見えます。
町中がやたら砂埃に満ちているのはお前のせいだったのか、と思ったり思わなかったり(多分彼のせいではありません)。

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タトラT4SU型電車改造の砂撒き車005号車(ピザームチェ駅付近、2018年)
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後部がホッパ車構造になっています。

【車両修理所の貨物電車】
4枚目は、ホロドーツィカ通りの第1車庫(Трамвайне депо № 1)にある車両修理所(Вагоноремонтна майстерня)の貨物電車(Вантажний ВРМ)です。これも旅客用の電車からの改造車で、種車はゴータT2-62型(Gotha T2-62)電車です。東ドイツの有名な車両メーカー、「ゴータ車両製造」の路面電車です。
写真の001号車(旧457号車)は1963年に製造され、1983年までリヴィウ市電で旅客輸送に用いられました。本来は連接車でした(相方はゴータB2-62型の557号車で、457-557列車を編成していました)。ゴータ製の車両は少数、事業用や保存車両としてリヴィウ市電に残存しています。
写真の001号車は、バックで第1車庫に戻ろうとしています(逃げられました!)。横を追い越そうとしているのは、リヴィウ電気交通社のシュコダ14Tr02/6型(Škoda 14Tr02/6)無軌条電車(トロリーバス)です。538号車は、2016~17年頃リヴィウで近代化改修(アコモ改善)されてすっかり綺麗になりました。

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ゴータT2-62型電車改造の貨物車001号車とシュコダ14Tr02/6型電車538号車(ホロドーツィカ通り、2018年)

【職用車】
今回の最後は、タトラT4SU型電車改造の職用車(Службовий вагон)です。006号車は1977年製で、2011年にT4型の旅客運用撤退まで通常の路面電車として運用されました(旧850号車)。原型を留めていて、ときどき町中を一人で走っています(現在旅客運用に就いているのはみんな車両を連結した連接車で、「一人」ではないです)。
ですが、写真のときはパンタグラフが上がっていないことからもわかるように、このときは自走していませんでした。なぜか、前のクラーズ(KrAZ)に牽引されています。これは第1車庫から出てリヴィウ駅や市街地へ向かう軌道上なのですが、何か作業をしていたのか、故障したのか、この車両が道を塞いでいたので後ろが大渋滞で、いろんな路面電車が行列してパレード状態になっていました。利用者は電車が来なくて大変だったことでしょう。このあと、クラーズに引っ張られて駅の方に曲がっていきました。
町中でときどきクラーズに引っ張られて行く路面電車やトロリーバスを見かけますが、トラックが電車を散歩させているみたいで見ていてどことなく微笑ましいです。なお、クラーズはウクライナ製の大型トラックで新旧ありますが、いずれも電車を引っ張れるくらい大型です(写真は新で、KrAZ-6322かその派生型)。

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KrAZに牽引されるタトラT4SU型電車改造の事業用車両006号車(ホロドーツィカ通り、2018年)

【参考資料】
Lvivelectrotrans – Львівське комунальне підприємство ‘Львівелектротранс’ [http://www.lvivelectrotrans.com.ua/].
Харьков транспортный. Трамвай. Подвижной состав. Снегоочистители [http://gortransport.kharkov.ua/ps_models/96/] (2019年3月1日閲覧、以下同じ).
Історія на колесах або Дні відкритих дверей у трамвайному депо №1 (1. 6. 2015) [photo-lviv.in.ua/istoriya-na-kolesah-abo-dni-vidkrytyh-dverej-u-tramvajnomu-depo-1/].
Вагон № C-002 // Львівський електротранспорт[http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon_single.php?id=727].
Поїзд № 457-557 // Львівський електротранспорт [http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon.php?id_train=116].
Вагон № 005 // Львівський електротранспорт [http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon_single.php?id=9].
Вагон № 006 // Львівський електротранспорт [http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon_single.php?id=10].
Львів, трамвайний вагон № С-002 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/73060/].
Львів, трамвайний вагон № 001 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/67762/].
Львів, трамвайний вагон № 005 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/18638/].
Львів, трамвайний вагон № 006 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/23999/].


2018年11月 活動日誌 / November 2018 Activity Report

2018年11月30日 / November 30, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【独立100周年行事】
ウクライナは、今年で独立100周年になります。しかし、その道程は平坦ではなく、諸外国との戦争により独立を維持できなかったことは周知のとおりです。今月は、ウクライナ人の独立戦争のなかの象徴的な事件の一つである「11月決起」(Листопадовий чин)の100周年記念行事として、リヴィウ大学から聖ユール大聖堂に至る坂道(11月決起通り)にある旧ゴウホフスキ伯邸前にリヴィウ州政府によって建てられた記念碑の除幕式が催されました(州議会広報)。式典では、ウクライナ・シーチ銃士隊(Українські січові стрільці, УСС)の「銃士の歌」(Стрілецькі пісні)が演奏されるなどしました(GJO撮影)。リヴィウ大学の学生たちは、独立戦争の戦没者を埋葬したヤーニウ墓地へお参りしました。

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【1918年、11月決起】
1918年1月22日(当時使用していたユリウス暦では1月9日)に、キエフを首都とするウクライナ人民共和国(国民共和国、民族共和国とも)で独立が宣言されました。
他方、オーストリア=ハンガリー帝国を構成するガリツィア・ロドメリア(ガリーツィエン・ロドメーリエン、ハレィチナー・ウォロディーメィリヤ)王国首府リヴィウでは、1918年10月18~19日、帝国議会、ハレィチナー議会、ブコヴィーナ議会の議員、各地、各政党、宗教界、学生、各種団体の代表者ら総勢約500名がウクライナ国民会議(Українська Національна Рада)を設立し、ハレィチナー(Галичина)、ブコヴィーナ(Буковина)、ザカルパーッテャ(Закарпаття)を領域とするウクライナ国家樹立を採択しました。10月21日には、イェウヘーン・ペトルシェーヴィチ(Євген Омелянович Петрушевич, 1863–1940)議長(大統領)がオーストリア政府からの承認を得るためウィーンに向かいました。
一方、10月28日にはクラクフにてポーランド精算委員会が組織されます。彼らはリヴィウへ兵を送って11月2~3日深夜に蜂起を行い、ハレィチナーをポーランド国家へ編入せんとする計画を立てていました。この計画が明るみに出ると、10月31日、ウクライナ国民会議とウクライナ総軍委員会から組織された代表団はガリーツィエン総督カール・ゲオルク・フイン伯爵(Karl Georg Huyn, 1857–1938)に抗議しハレィチナーのウクライナ人への引き渡しを要求するも、拒絶されました。ウクライナ・シーチ銃士軍団出身のドメィトロー・ヴィトーウシケィイ(Дмитро Дмитрович Вітовський, 1887–1919)中央軍事委員会代表はポーランド軍の侵攻の前に先手を打つべきであると主張、国民会議リヴィウ代表コースチ・レヴィーツィケィイ(Кость Антонович Левицький, 1859–1941)は蜂起を決議します。こうして1918年11月1日未明4時、ウクライナ人勢力による「11月決起」が開始されました。
ハレィチナー軍(のちウクライナ・ハレィチナー軍、Українська Галицька армія, УГА)は速やかに市庁舎、総督府庁舎、議事堂(現在のリヴィウ大学本校舎)、警察署、電話局、ラジオ局、郵便局、鉄道駅、飛行場、要塞、軍施設、監獄など戦略地点を抑え、午前7時にはリヴィウの無血掌握が宣言されます。ウクライナ勢はまた、ハレィチナー(今日のリヴィウ州、テルノーピリ州、イワーノ=フランキーウシク州、現ポーランド領の一部)の諸都市も押さえます。同日昼、フイン総督はオーストリア帝国の連邦化を決めた皇帝カール1世の11月16日付宣旨に基づき、ハレィチナーの全権をウクライナ国民会議へ委譲しました。
ウクライナ国民会議は、シャーン川(サン川)を国境とすること、リヴィウにおけるポーランド系及びユダヤ系住民の文化的自治を提案しますが、ポーランド人は拒否します。
11月1日深夜、ポーランド人武装勢力による蜂起が開始されます。ポーランド人義勇兵「ルヴフの若鷲」(“Orlęta lwowskie”)はリヴィウ駅を含む市西側を掌握、以降半月、東側のウクライナ軍と激しい市街戦が展開されます。現在の11月決起通りも両陣営の対峙した最前線の一つで、ゴウホフスキ伯邸も戦闘で大きな損傷を受けたと言います。

【リヴィウを巡る戦い】
ポーランド軍に続々と増援が送られてくるのに対し、ハレィチナー軍への増援は緩慢でした。7~8日、フェルディナント兵舎(現ホロドーツィカ通り40番地)で激しい戦闘が生じます(市議会はここに記念碑を建てました。(市議会広報)。ところで、1992年からペトルシェーヴィチ広場に記念碑設置予定地が設けられているのですが、なぜか今回無視されています)。
11月9日にはレヴィーツィケィイを首相とする政府が作られ、国号が「西ウクライナ人民共和国」(Західно-українська Народня Република, ЗНУР)と定められます。
高城にウクライナ軍の榴弾砲が据えられると、これを撃破すべくポーランド軍は航空戦力を投入します。イワーン・フランコーの息子ペトロー(Петро Іванович Франко, 1890–1941)は、機関銃中隊を率いて高城防衛に参加しました。キエフのウクライナ国政府は第3オデーサ航空師団を派遣し、リヴィウ近郊のクラスネーにハレィチナー軍航空隊が組織されます。
11月13日には、ウクライナ国民会議において「旧オーストリア=ハンガリー帝国ウクライナ人地域の国家的独立性に係る臨時基本法」が採択され、オーストリアの民族学者カール・フォン・チェルニヒ(Carl von Czörnig, 1804–1889)の著した『オーストリア帝国民族誌図』(“Ethnographische Karte der österreichischen Monarchie”, 1855)におけるウクライナ民族の歴史的居住地域に基づき、国境線が明文化されます。
18~20日の休戦期間にポーランド軍は鉄道輸送を用いた部隊再編に成功し、航空戦力、砲兵、装甲列車を含む1万人規模の兵力によってリヴィウ包囲を完成させます。21日に戦闘が再開されたとき、ウクライナ軍は自らの1.5倍に膨れ上がった強大な敵を目の当たりにしました。ウクライナ軍は必死の抵抗を試みますが、22日、進退窮まったウクライナ軍司令官フナート・ステファーニウ大佐は退却を命じます。入城したポーランド軍は住民の虐殺(ポグロム)を行い、23日に略奪中止命令が出されるまでの3日間で、ユダヤ系住民50~150名、ウクライナ系住民270名が利敵行為を働いたとして殺害されたとされます。
リヴィウを巡る戦いで、ウクライナ軍は戦死者250名、負傷者約500名、ポーランド軍は戦死者277名、負傷者910名を出しました。今日、激戦地の近く、レィチャーキウ墓地に双方の戦没者の慰霊施設があります。

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西ウクライナ人民共和国及びウクライナ・ハレィチナー軍英雄碑除幕式の様子

2018年10月 活動日誌 / October 2018 Activity Report

2018年10月31日 / October 31, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【日本語弁論大会】
今年で23回目となる日本語弁論大会は、10月21日(日)にオレーシ・ホンチャール記念ドニプロー国立大学(ドニプロー市)で開催されました。一昨年前からウクライナでは1年毎に首都と地方とで交互に会場を移して開催するということになっており、今年は初めてドニプロー市で開催されました(なお、地方実施の初回はリヴィウ大学で行われ、そのときちょうどリヴィウにいて審査員を頼まれましたから、緊張したのを覚えています)。
今大会へ、リヴィウ大学からは4年生のアナスターシヤ(ナースチャ)・ルホワーさんが出場しました。ウクライナ日本語教師会の作成したホームページがありますので、リンクを貼ります(https://www.facebook.com/groups/2163036270651746/)。
ナースチャさんは、「LGBT+は社会の一部です」という題で発表を行いました。これは、ウクライナや世界における性的マイノリティーと社会との関わりについてのスピーチで、5分間という限られた持ち時間の中に、概念の説明に始まり、できるだけ多くの例と自分の意見をしっかり詰め込むことができたと思います。ナースチャさんは昨年も弁論大会に出場しましたが、この1年間で眼を見張るほど日本語力が伸びました。スピーチの内容もより深いものとなりました。
原稿の執筆や修正から、音読の練習、ほかの学生たちや先生の前でのリハーサルと、担任のオーリャ先生や学科長のオレスタ先生のご協力もいただきながら一生懸命取り組んできましたが、その結果、全国4位という立派な成績を残すことができました。おめでとうございます。
本人の感想では、本番は頭が真っ白になってしまって何も覚えていないとのことでしたが、日本語での作文や執筆に際して改めて考えたこと、本番のために練習したことからはきっと、意識的にも無意識的にも何か得たものがあったはずだと思います。
リヴィウ大学には日本語の勉強に大変熱心に取り組んでいる真面目な学生が何人もいますので、その将来が楽しみだと思います。

【リヴィウ大学のイベント】
リヴィウ大学では10月4日から6日かけて、ウクライナ文学科創設170周年を記念する国際学術会議「ウクライナの文献学:学派、人物、問題」(Міжнародна наукової конференція «Українська філологія: школи, постаті, проблеми»)が開催されました。学会には12のセクションが設けられました。ところで、こちらは文学部長に見つかってしまい、ぜひ発表して下さいということになってしまったので、どうにかこうにか発表の準備を行って当日に臨みました。イワーン・ネチューイ=レヴィーツィケィイというウクライナの作家の小説について発表を書きました。第4セクション「古代及び古典文学」のセクションが割り当てられました。司会の先生の一人はオストリーフ(オストローフ)からいらしていて、ほかにキエフからの先生もいましたが、さすがにリヴィウからの参加者が多かったです。テーマは様々でしたが、古代から近世(18世紀まで)の古い文学と、近代(19世紀)の古典文学とが半々くらいでした。
学会2日目の最後に、大学ホールでコンサートが行われました。芸術文化学部の合唱団によるウクライナ民謡の演奏、18世紀ウクライナの哲人フレィホーリイ・スコウォロダーの詩を基にした出し物、カルパティア地方の伝統的なかなり激しい踊り、モダンダンスなどが披露されました。そのあと晩餐会があったのですが、ちょうど風邪を引いていて具合が悪かったので退散しました。残念!
最終日にはリヴィウ大学の研究所まで遠足をしたそうです。
ウクライナの大きな学会に参加すると、コンサートが見られたりいろいろなイベントが催されるのでおもしろいですね。日本の学会ではあまりそういう企画はないような気がします。


2018年9月 活動日誌 / September 2018 Activity Report

2018年9月30日 / September 30, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【サマースクール / Summer School】
夏休みが終わり、新学期が始まりました。9月は、東京外国語大学から留学生がやって来ます。今年は、2年生の丸島莉子さん、重光美可子さん、井谷彩美さん、4年生の腰塚尚子さんが3週間のサマースクールに参加しました。
The summer vacation came to an end, and the new semester began. In September, exchange students from TUFS usually come to Lviv. This year, three second year students, MARUSHIMA Riko, SHIGEMITSU Mikako, IDANI Ami and one fourth year student, KOSHIZUKA Naoko, participated in the three-week summer school program.

サマースクールでは、大学ではウクライナ語の授業のほか、文化や歴史に関する講義、糸巻き人形「モータンカ」作りの体験教室が行われました。市内のレストランで行われたウクライナ料理教室では、きのこスープとデルネィー(じゃがいもから作るお好み焼き風の料理)を作りました。ハレィチナー青少年創作センターのいろいろな教室の見学もありました。リヴィウ大学の先生方と一緒に、フジコ・ヘミングさんのコンサートを聴きに行ったりもしました。
At summer school, students take Ukrainian language classes at the university, attend courses on culture and history, and participate in workshops including traditional “motanka” doll-making classes. At the Ukrainian cooking class, held in a restaurant in the city, the students made mushroom soup and deruny (potato pancakes). The students also observed many classes taught at the Centre for Culture and Creativity for Children and Youth in Halychyna (Galicia). They also attended a concert by Fujiko Hemming with professors from the University of Lviv.

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【日本大使館の説明会 / Information Session with the Embassy of Japan】
在ウクライナ日本国大使館からお客様がありました。
リヴィウ大学の学生向けに、日本の文化や風土に関する講演と、日本への国費留学のための試験についての説明が行われました。学生たちは、入学間もない1年生から積極的に参加していました。
Some visitors came from the Embassy of Japan in Ukraine.
They held a lecture on Japanese climate and culture, and an information session on the national scholarship exchange student exam. The students, even the first years who had only just entered the university, actively participated.

講演は、「和魂洋才」の話や、ウクライナと日本との比較、特に「ウクライナはキエフからドニプローまで移動しても1つもトンネルがないが、日本だったらこれほどの距離を移動してトンネルがないなんてことはありえない」という話が印象的でした(※ドニプローはウクライナ南部の大都市で、キエフからの道のりは約600kmです)。
The lecture talked about “wakon yōsai” (Japanese spirit with Western learning) and comparisons between Ukraine and Japan. In particular, the discussion on how “Ukraine has no tunnels from Kyiv to Dnipro, but it is unbelievable in Japan to not have any tunnels across this amount of distance,” left an impression (Dnipro is in Southern Ukraine, from which the distance to Kyiv is 600km).

試験は倍率も高く狭き門だと思いますが、狭くともこのような道が開けているのはすばらしいことだと思います(ウクライナへの国費留学プログラムは??)。ぜひがんばって勉強してチャレンジしてもらいたいと思います。
(イベントにつきましては、在ウクライナ日本国大使館のフェイスブックにも掲載されています。)
The exam is a highly competitive hurdle, but I think it is wonderful that this path exists (what about a national scholarship exchange program to Ukraine though?). I hope the students study hard and step up to the challenge.
(More information on this event can be found on the Embassy of Japan in Ukraine’s Facebook page).

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【冬です! / Winter is Here!】
ちょうど留学生の帰国日から寒くなり、東京の冬のような気候になってしまいました。これから寒かったり暖かかったりを繰り返しながら本格的な冬になっていきます。
Just as the TUFS students left, Lviv became cold, and the climate is similar to winter in Tokyo. From now on the days will alternate between being cold and warm until it finally becomes winter.


2018年8月 活動日誌 / August 2018 Activity Report

2018年8月31日 / August 31, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【夏休み / Summer Vacation】
夏休みで大学は話題がないので、今月も近くの町の様子を話したいと思います。
Since it is still summer vacation, there were no classes this month either, so once again I will report on a town near Lviv.

【オストロージケィイ公 / House of Prince Ostrozky】
今月は近世ウクライナの支配者、オストロージケィイ公(Князі Острозькі)を紹介します。
オストロージケィイ公は、ウクライナ北西部の町オストローフ(Острог, 現リーウネ州の市)を本貫とする公の一族でした。祖先はキエフ大公たち、そして初代ルーシ王ダネィーロ・ロマーノヴィチとされます。ダネィーロ王はリヴィウの建設者です。家伝によれば、このダネィーロ王こそは初代オストローフ公ダネィーロ・オストロージケィイその人でした(今日の研究ではダネィーロ公はダネィーロ王の孫とされます)。ポーランド=リトアニア共和国最大の大名として君臨し、正教とウクライナ文化の庇護者としてウクライナ社会の発展に大いに貢献しました。しかし、1620年に断絶しました。遺産は分家のザスラーウシケィイ公(Князі Заславські)が継承しましたが、こちらも1682年に断絶、一門は絶えました。
This month I would like to talk about the rulers of Ukraine in the early modern period, the Ostrozky House (Князі Острозькі).
The Ostrozky House is a noble family originating from a town in northeast Ukraine called Ostroh (Острог, now a city located in Rivne Oblast). Their ancestors include the Grand Prince of Kyiv and the King of Ruthenia, Danylo Romanovych (Daniel of Galicia). King Daniel was the architect of Lviv. According to family tradition, King Daniel and the founder of the House of Ostrozkyi, Danylo Ostrozsky, were the same person (research has shown that Danylo Ostrozsky was in fact the grandchild of Daniel of Galicia). The House of Ostrozky reigned as magnates of the Polish-Lithuanian Commonwealth, and made great contributions to Ukrainian society as the guardians of orthodoxy and Ukrainian culture. However, the family line came to an end in 1620. The family’s heritage was passed on to the House of Zasławski (Князі Заславські), which came to an end in 1682, and so the family died out.

【リヴィウ / Lviv】
ワセィーリ・コステャンティーン・オストロージケィイ公(Василь Костянтин Острозький, 1526/27–1608)は、オストローフに大学(神学校)や印刷所を開いたことで知られます。リヴィウ大学の博物館は、このオストロージケィイ公らによって継承されたビザンツの東方文化と、イエズス会らによって齎された西欧文化の結実点として本学を位置づけています。
Kostiantyn Vasyl Ostrozsky (Костянтин-Василь Острозький, 1526/27-1608) was a magnate that was known for establishing a university (theological school) and printing press in Ostroh. The University of Lviv’s museum has positioned the university as the “point of fruition”, as it boasts both the Eastern culture of Byzantine inherited from Kostiantyn Vasyl Ostrozsky, and the Western culture brought by the Jesuits.

ワセィーリ・コステャンティーン公が寄進したリヴィウの聖オヌーフリイ修道院の教会は今年、ちょうど建立500週年を迎えています。彼の下で最初の全訳聖書を出版したイワーン・フェードロウ(フョードロフ)もリヴィウに居住し、市民が中心になって作ったリヴィウ就寝兄弟団で翻訳や出版活動に携わりました。
これ以外にも、リヴィウにはザスラーウシケィイ公の教会があります。ワセィーリ・ステファーネィク記念国立学術図書館の敷地はかつてその所領で、彼らの寄進した履足(履靴)カルメル会聖アグネス教会・修道院が現在書庫として利用されています。跣足カルメル会教会・修道院(現在の聖大将軍ミカエル教会)建立にも寄進しています。彼らはまた合同教会(今日のウクライナ・ギリシア=カトリック教会)の庇護者として多くの支援を行いました。
This year, Lviv’s Monastery of St. Onuphrius, which was donated by Kostiantyn Vasyl Ostrozsky, will reach its 500th anniversary. Ivan Fedorov (also transliterated as “Fyodorov”), who published the first complete East Slavic translation of the bible with the assistance of Kostiantyn Vasyl Ostrozsky, also lived in Lviv and was involved in translating and publishing work at the Lviv Dormition Brotherhood.
There are also House of Zasławski churches in Lviv. The grounds of the Lviv National Vasyl Stefanyk Scientific Library of Ukraine used to be the territory of one church, which is now being used as an archive by the Calced Carmelites St. Agnes Church and Monastery that the Zasławski family contributed to. They also contributed to the construction of the Discalced Carmelite Church and Monastery (now the Church of St. Michael the Archistrategos). In addition, they also carried out a lot of support as the guardians of the Uniate Churches (now known as Ukrainian Greek Catholic Churches).

【スタレー・セロー / Stare Selo】
オストロージケィイ公は、今日のリヴィウ州にもいくつかの領地を持っていました。なかでもリヴィウ郊外にあるスタレー・セロー村(Старе Село)の城、スタレー・セロー城(Старосільський замок)は一門の最盛期である16世紀末に建てられた城塞で、リヴィウ州最大の面積(2ヘクタール)を誇ります。「黄金の蹄鉄」にも含められる場合があります。
The house of Ostrozsky owned a lot of land in what is now the Lviv Oblast. Among these territories is the Stare Selo Castle (Старосільський замок), the largest (2 hectares) fortress in the Lviv Oblast, which was built in the golden age (the late 16th century) of this house in Stare Selo (Старе Село), a village on the outskirts of Lviv. It is often included as part of the “Golden Horseshoe of Lviv Region”.

城は、ワセィーリ・コステャンティーン公の代、1584から1589年にかけて普請されました。イタリアから招いた建築家アンウローシイ・プレィヘィーリネィイ(ワベレネ・ヌトクラウス)によってルネサンス式城郭として設計されました。1642年にはウラディスラーウ・ドミニーク・ザスラーウシケィイ公(Владислав Домінік на Острозі Заславський, 1616–56)による改築を受けます。1648年に叛乱コサックの攻撃を受けて一度陥落しますが、ドミニーク公はこの城をさらに改築し、マニエリスムとバロックの様式美を取り入れた壮麗で堅固な城に仕上げました。彼はこの城を居城とし、ここで没しました。2度目の改築以降、城はコサックの攻撃にも、クリミア汗国やオスマン帝国の襲撃にも持ち堪えました。ドミニーク公はコサックとの決戦で大敗北を喫したポーランド軍の大将で、専ら「羽根枕」という嘲った渾名で知られているのですが、必ずしも軍事的無才ではなかったのかもしれません。
The castle was built from 1584-1589 in the era of Kostiantyn Vasyl Ostrozsky. It was designed as a renaissance fortress by an architect brought in from Italy, Ambroży Przychylny (also known as Vaberene Nutclauss). In 1642, Wladysław Dominik Zasławski (Владислав Домінік на Острозі Заславський, 1616-1656) commissioned some alterations. In 1648, the castle was attacked and destroyed by Cossack uprisers, but Wladysław Dominik Zasławski rebuilt it as a solid and splendid castle influenced by Mannerism and Baroque. He lived out the rest of his life and passed away in this castle. After the second reconstruction, the castle survived not only the Cossack attacks, but also attacks from the Crimean Khanate and the Ottoman Empire. Wladysław Dominik Zasławski was a general in the Polish army who suffered a great defeat in a battle with the Cossacks, after which he was exclusively referred to by the ridiculous nickname “duvet”, but I don’t think he completely lacked military sense.

今日残るのは、城壁と塔のみですが、三角形または五角形といわれる平面形を持つ稜堡式城郭の特徴と、近世ウクライナ西部で流行した渦巻文様の装飾などを見ることができます。
Only the ramparts and towers remain today, but you can see the characteristics of a triangular/pentangular bastion fort, and the whirlpool pattern that was popular for decorations in the early modern period in Western Ukraine.

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スタレー・セロー城の城壁とバロック・マニエリスム風装飾のある主塔 / Stare Selo Castle. The main tower and ramparts are constructed in the baroque/mannerism style

【ドゥーブノ / Dubno】
ワセィーリ・コステャンティーン公の子ヤーヌシュ・オストロージケィイ公(Януш Васильович Острозький, 1554–1620)は、父の代に繰り返し起こった財産を巡るお家騒動に鑑み、1609年、財産分与を禁じた「オストローフ限嗣相続領」(Острозька ординація)を作ります。その首都となったのが、ドゥーブノ(Дубно, 現リーウネ州の市)でした。
In light of a family revolt over the estate of his father, Kostiantyn Vasyl Ostrozsky’s son, Janusz Ostrozsky (Януш Васильович Острозький, 1554-1620), created the “Majorat of Ostroh” (Острозька ординація), which banned the distribution of property, in 1609. Dubno (Дубно, now a city in the Lviv Oblast) became the capital of this.

彼は、祖父の築いた石造りの城を改築し、深い水濠と高い土塁を持つ堅固な稜堡式城郭に仕立てました。主郭は三角形の一角を川によって切り取られたような変則的な平面形をしています。同時代の教会や修道院、ザスラーウシケィイ公時代の城門も現存します。
He rebuilt his grandfather’s stone castle into a solid bastion fortress with high earthen walls and deep moats. The main section is an irregular shape, and looks as if one corner of a triangle was cut off by a river. A church and a monastery from the same era, and a castle gate from the Zasławski era still stand today.

この城が最も有名になったのは、ゴーゴリの時代小説『タラース・ブーリバ』でしょう。この作品の中で、ドゥーブノ城はクライマックスの決戦の場に選ばれます。タラースの息子アンドリーイが恋をする傾国の令嬢はハーリシュカ・オストロージカ公女(Гальшка Острозька)、その父「コーヴノ(カウナス)守護」(Воевода ковенский)は「キエフ守護」(Воєвода київський)だったワセィーリ・コステャンティーン公がモデルとされます。
This castle, Dubno Castle, became famous as the setting for the final battle in “Taras Bulba”, a historical novella by Nikolai Gogol. In the novel, the beautiful young woman that Taras’s son Andrii falls in love with was based on Halshka Ostrozska (Гальшка Острозька), and her father, “the voivode of Kovno (Kaunas)” (Воевода ковенский), was based on Kostiantyn Vasyl Ostrozsky, who was “the voivode of Kyiv” (Воєвода київський).

【行き方 / Directions】
聖オヌーフリイ修道院は、ダネィーロ王時代の中心地、旧レィーノク広場(Старий Ринок)からさらに10分ほど北に行った、鉄道の線路沿いに立っています。城山の麓です。市電6号線または徒歩で行かれます。国立学術図書館はリヴィウ大学の近所です。
The Monastery of St. Onuphrius is located about 10 minutes north along the train tracks past Old Rynok (Старий Ринок), which was the center of the region during Daniel of Galicia’s era. There you will find the base of the castle’s promontory. You can either catch the number 6 tram or walk there. The Scientific Library of Ukraine is near the University of Lviv.

スタレー・セロー城は、ウクライナ鉄道のスタレー・セロー駅のすぐ前にあります。リヴィウ駅近郊駅舎(Приміський вокзал станції Львів)に発着するホードリウ(Ходорів)行き普通列車で1時間弱です。
Stare Selo Castle is right in front of the Stare Selo Railway Station. It takes a little under an hour on the train heading to Khodoriv (Ходорів) from Lviv Suburban Railway Station (Приміський вокзал станції Львів).

ドゥーブノはリヴィウから急行列車で1時間強の距離にありますが、列車もバスもほとんど走っていないため日帰りが困難です。夕方の列車で出て1泊し、翌日14時21分の終電で帰ることになるでしょう。城は鉄道駅から離れた市街地にあり、路線バスで行かれます。
Dubno is a little over an hour away by express train, but since there are not many trains or buses, it is hard to make a day trip there. It is probably best to go there on an evening train and spend the night, then return on the last train at 14:21 the following day. The castle is in an urban area away from the railway station, which can be reached by bus.

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リヴィウの聖オヌーフリイ修道院教会。500周年のポスターがある / Lviv’s Monastery of St. Onuphrius. There is a poster advertising its 500th anniversary.
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イークワ川から望んだドゥーブノ城 / Dubno Castle from the Ikva River

【参考文献・サイト / References】
Дзярнович О., Рагаускене Р., Тесленко І., Черкас Б. Князі Острозькі. Київ: Балтія-Друк, 2015.
Гаврилюк І. Владислав Домінік Заславський (1616–1656 рр.): магнат, політик, воєначальник // Спеціальні історичні дисципліни: питання теорії та методики. Збірка наукових праць / Відп. ред. Г. В. Боряк; Упорядники: В. В. Томазов, І. К. Хромова. Київ: НАН України, Інститут історії України, 2013. Число 22–23. С. 83–110.
Мацюк О. Я. Замки і фортеці Західної України. Мандрівки історичні. Львів: Центр Європи, 2013. С. 17–22.
Палков Т. Західна Україна. Частина II. Львів: Ладекс, 2011. С. 35–36.
Яковенко Н. М. Українська шляхта з кінця XІV до середини XVІІ століття. Волинь і Центральна Україна. Видання друге, переглянуте і виправлене. Київ: Критика, 2008 (вперше видано 1993).
Войтович Л. В. Княжа доба: портрети еліти. Біла Церква, 2006.
Кралюк П. Таємний вояж Гоголя // Газета «День» [https://day.kyiv.ua/uk/article/ukrayinci-chytayte/tayemnyy-voyazh-gogolya] (2018年8月5日閲覧、以下同じ).

Старе Село // Замки і храми України [https://www.castles.com.ua/stselo.html].
Дубно//Замки і храми України [https://www.castles.com.ua/dubno.html], [https://www.castles.com.ua/dubno2.html].


2018年7月 活動日誌 / July 2018 Activity Report

2018年7月31日 / July 31, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【夏休み / Summer Vacation】
リヴィウ大学では、7月前半までに実習や卒業式などがあって夏休みとなります。リヴィウ以外の地方から来ている学生も多く、多くが帰省します。新学年は9月から始まります。日本では猛暑とのことですが、今年のリヴィウの7月は雨がちの天気が続きさながら梅雨のようでした。
At the University of Lviv, the workshops and graduation ceremonies finish by the first half of July, and then the summer vacation begins. Many students come from areas outside of Lviv, and most of them return home during this time. The new academic year begins in September. While Japan experiences heat waves this time of year, in July in Lviv it rains so much that it might as well be rainy season.

【黄金の蹄鉄 / The Golden Horseshoe】
今月は夏休みで大学の話題がないので、リヴィウの近くの町の様子を話しましょう。
リヴィウがその中心市となるリヴィウ州には、多くの名所旧跡があります。それらは大きく分けて、自然のものと、歴史遺産があります。後者のなかでも、「リヴィウ州の黄金の蹄鉄」(Золота підкова Львівщини)と名付けられた観光ルートがあります。今月はそのうち、第二次ウィーン包囲で活躍したヤン3世ソビェスキ(Jan III Sobieski, Ян III Собеський, 1629–96)の居城として名高いゾーロチウ城(Золочівський замок)をご紹介したいと思います。
Since it is summer vacation, I don’t have any university-related topics to report on this month, so I will write about a town near Lviv.
There are many scenic and historic places in Lviv and the Lviv Oblast. These can be broadly categorized as natural wonders or historical heritage sites. For the latter, there is a sightseeing route called “The Golden Horseshoe of Lviv Region” (Золота підкова Львівщини). This month, I will report on one of the most well-known castles on this route, Zolochiv Castle, which was the castle of Jan III Sobieski (1629-1696) who is famous for his part in the Battle of Vienna.

【ゾーロチウ / Zolochiv】
ゾーロチウ市(Золочів)は、リヴィウ市の東66 kmの距離にある、人口約2万4千人の都市です。この地には、遅くとも12世紀にはラデーチェまたはラーデチェ(Радече)という古代ルーシの都市が存在しました。ゾーロチウの名が初めて文献上に現れるのは、15世紀前半のことです。1523年には、都市自治権を保証するマクデブルク法が下賜されました。
Zolochiv is a city of 24,000 people located 66 km east of Lviv. It was also the site of Radeche, an ancient Ruthenian city in the 12th century. The name “Zolochiv” first appeared in historical texts from the early 15th century. In 1523, Zolochiv became a city under the Magdeburg rights.

ゾーロチウが飛躍的な発展を遂げたのは、大名ソビェスキ家(Sobiescy herbu Janina)がこの町の所有者となった1552年から1740年までの時代でした。ソビェスキ家はポーランドとウクライナの国境に地帯であるルブリン地方から来た一族であるとされていますが、元々は正教徒のルーシ人(ウクライナ人)でソブコー(Собко)という姓であったのを、現世利益のためにカトリックへ改宗、姓もポーランド化してソビェスキと称したと、18世紀初頭のウクライナの年代記には書かれています(Лѣтопись событій Самоила Величка // Лѣтопись событій въ Юго-Западной Россіи в XVII вѣкѣ. Т. 3. Киевъ, 1855. С. 375; 現代語訳Величко С. В. Літопис. Т. 2. Пер. з книжної української мови, комент. В. О. Шевчука; Відп. ред. О. В. Мишанич. Київ: Дніпро, 1991. С. 519 [http://litopys.org.ua/velichko/vel54.htm])。この説の信憑性は不明ですが、いずれにしてもウクライナ人にとってウクライナとの強い結びつきを感じる一族であったことは確かでしょう。
Zolochiv underwent rapid development from 1552-1740, which was the period it was owned by the magnate of the House of Sobieski. It is said that the House of Sobieski is a family that came from the Lublin region, a zone on the Polish-Ukrainian border, but Ukrainian annals from the early 18th century document the family as originally being Orthodox Ruthenians (Ukrainians) under the name “Sovko”, who converted to Catholicism for the benefits of Catholic beliefs, and had their surname Polishized to “Sobieski” (Source: Величко С. В. Літопис. Т. 2. Пер. з книжної української мови, комент. В. О. Шевчука; Відп. ред. О. В. Мишанич. Київ: Дніпро, 1991. С. 519 [http://litopys.org.ua/velichko/vel54.htm]). While the authenticity of this source is unclear, it is undeniable that Ukrainians consider the House of Sobieski to be strongly linked with Ukraine.

今日ある城を築いたのは、ヤン3世の父ヤクプ・ソビェスキ(Jakub Sobieski, 1588–1646)です。1634年、彼はイタリアから建築家を招き、それまでの古い木造の城の場所に新たにルネサンス式の城を築きました。ヤン・ソビェスキはさらに城を増築しました。
The castle that stands today was built by Jakub Sobieski (1588-1646). In 1634, Jakub Sobieski brought in an architect from Italy and built a renaissance castle to replace the old wooden castle. Jan Sobieski built additions onto this castle.

18世紀末、ポーランド=リトアニア共和国の滅亡に伴い、ゾーロチウはオーストリア帝国内のガリツィア・ロドメリア王国の都市となりました。オーストリア帝国が崩壊すると、ウクライナ・ポーランド戦争に勝利したポーランド共和国の領土となりました。1941年、赤軍が侵攻し、町を占領しました。城は秘密警察(NKVD)の監獄として用いられました。収監された人々は殺害され、遺体は窓から破棄されました。ドイツ軍が入城した際、生存者は一人もいなかったとのことです。彼らは、ユダヤ人に遺体の処理をさせました。集められた649人の遺体のうち、遺族によって身元が判明したのは40人足らずでした。その後、ユダヤ人は殺害されました。ドイツの敗戦とウクライナの独立運動の失敗により、ゾーロチウにはソ連の支配が戻りました。ソ連崩壊により、今日のウクライナ、リヴィウ州の地区政令指定都市となりました。
In the late 18th century, alongside the collapse of the Polish-Lithuanian Commonwealth, Zolochiv became part of the Austrian Empire’s Kingdom of Galicia and Lodomeria. When the Austrian Empire fell, it became the territory of the Second Polish Republic, who won the Polish-Ukrainian War. In 1941, the Red Army invaded and occupied the town. It was then used as a prison by the secret police (NKVD). The people imprisoned here were killed, and their bodies thrown out the window. It is said that when the German forces entered the castle, there was not a single survivor. They had the Jews dispose of the bodies. Out of the 649 bodies collected, less than 40 were identified by their families. After this, the Jews were killed. After Germany lost the war and after the Ukrainian independence movement failed, Zolochiv returned to Soviet rule. With the collapse of the Soviet Union, Zolochiv became a city of district significance to the Lviv Oblast, Ukraine.

【ゾーロチウ城 / Zolochiv Castle】
ゾーロチウの高台に築かれた城は、普請当時先端のルネサンス式築城術をもって造られた稜堡式城郭です。4つの矢尻型の稜堡を持つ石垣に囲われた正方形の基本構造を持つ四稜郭として造営されました。稜堡の上にはさらに盛り土があり、かなりの高さの防御壁となっています。城の周囲にめぐらされた土塁と濠も現存します。かつては都市全体も防御構造となっていました。
The castle, that was built on high ground in Zolochiv, is a Bastion fort built in the renaissance style, which was quite advanced at the time of construction. It was constructed as a quadrangular bastion fort, a basic square structure enclosed in stone walls with four arrowhead-shaped bastions. There are further embankments on the bastions, making the defensive walls very high. There are also earthen walls and a moat around the castle. In the past, the entire city was also a defensive structure.

実際に見る城の規模は意外と大きく、数あるリヴィウ州の城郭の中でも屈指のものであることがわかります。ソ連時代にはかつての貴族文化は全否定され、城はひどく荒廃しましたが、ウクライナの独立後に発掘調査と修復作業が行われ、今日では宮殿を中心にかなり綺麗な状態に復元されています。一方、城の裏手の外側の石垣などにはまだ崩れかかった箇所があり、それも却って時の流れを感じられて趣があると言えるでしょう。
Seeing the structure up close, Zolochiv Castle is much larger than you would expect, and it is clear that, among the many castles of the Lviv Oblast, it is one of the best. The aristocratic culture was completely denied during the Soviet era, and the castle was severely damaged as a result. However, excavations and restoration work were carried out following Ukraine’s independence, and today it has been restored to a fairly beautiful condition centered around the palace. On the other hand, some of the outer stone walls at the back of the castle have yet to collapse, so you can almost feel the flow of time.

城内には御主殿(かつての住居)と唐風御殿(別荘)という2つの宮殿があります。唐風御殿は、ヤン・ソビェスキが愛妻のために建てたものですが、当時のヨーロッパ貴族の流行(シノワズリ)に合わせて作られました。いずれも博物館として公開されており、御主殿では王家の生活が見られ、唐風御殿では日本や中国、東南アジアやエジプトなど、東方世界の文化が展示されています。ただし、一族本来のコレクションはポーランドに持ち去られていて、現在展示されているのはリヴィウ美術館から提供されたものであるとのことです。日本のものでは根付の展示が特に強調されていますが(ウクライナでは根付に対する関心が高いものと思われます)、日本刀や置物、歌川国貞の浮世絵、源頼政の鵺退治を描いた蒔絵なども展示されていました。学芸員の話によると、リヴィウ大学の中国語の学生らによって御殿でお茶会が開かれることがあるそうです。
Inside the castle there are two palaces; a Grand Palace (where people used to live), and a Chinese Palace (which was used as a villa). Jan Sobieski built the Chinese Palace for his beloved wife, and modelled it in the Chinoiserie style, a popular fad amongst European nobles. Both buildings are currently being used as museums open to the public, with the royal family’s lifestyle on display at the Grand Palace, and Eastern culture (mainly Japanese, Chinese, Southeast Asian and Egyptian) on display at the Chinese Palace. It is important to note that the original collection of the Sobieski clan was moved to Poland, and the collection currently on display was provided by the Lviv National Art Gallery. In terms of Japanese artifacts, there were many netsuke were on display (it seems many people know about netsuke in Ukraine), as well as swords, ornaments, ukiyo-e by Utagawa Kunisada, and maki-e depicting Minamoto no Yorimasa’s defeat of Nue. According to the curator, Chinese major students at the University of Lviv often hold tea ceremonies in the palace.

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搦手の稜堡と石垣 / The back gate bastion and stone wall
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稜堡の上から望む唐風御殿(左)と御主殿 / The Chinese palace seen from atop the bastion (left) and the Grand Palace
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復元模型 / Restoration model
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王座の間 / The throne room

【行き方 / Getting to Zolochiv】
ゾーロチウは、リヴィウからテルノーピリ経由でキエフに向かう鉄道路線上にあります。リヴィウから列車で1時間~1時間半ほどです。バスでも行かれますが、途中の村や町の様子を見たいなど特段の理由がなければ(バスは一面のひまわり畑の真ん中を走り抜けますので、それは感動的です)、なるべく鉄道の方がよいでしょう。鉄道の駅名は、ほかに同名の駅があるためズローチウ駅(Злочів)となっています。これは、ポーランド語の名前ズウォチュフ(Złoczów)から来ていると思われます。
Zolovich can be found along the train line from Lviv to Kyiv via Ternopil. From Lviv, it takes about one to one and a half hours by regular train. You can also go there by bus if you don’t have any special reason to stop and look at any of the towns and villages along the way (the bus runs directly through the middle of a sunflower field, which is quite spectacular), but I think that train is the better option. Since there are other train stations with the same name, this station is called “Zolochiv” (Злочів). This name is thought to have come from the Polish “Złoczów”.

駅は、お城まで徒歩20分以上、市街地まで30分以上南にあります。時間によっては、市街地にあるバス駅行きの路線バスが走っています(運賃は2018年8月現在5 UAH)。駅前のタクシーを利用してもよいでしょう。徒歩の場合は、駅からまっすぐ北に行って(駅舎は北口にあります)、途中の幹線道路(自動車道M09号線)で右折します。北に向かう次の道(マルキヤーン・シャシュケーヴィチ通り)を左折しますと、すぐに綺麗な木造教会と池が見られます。公園脇を抜け中心部に近づくに連れ、歩道は綺麗にインターロッキングが施され、花壇や植木のある大変素敵な住宅街になります(少し多磨の辺りの住宅街に似ています)。なかには戦前の住居もあります(地元の人の話によると、ポーランド統治時代の赤いレンガの家)。小さい公園に突き当たって右折しますと、左手に学校があります。突き当たってレストラン兼お土産物屋の脇をまっすぐ坂を上がると、お城の入り口につきます。まっすぐ行かずに右折して南に向かう車道の坂を上がりますと、城郭の裏手に抜けられます。石垣や濠が見たい場合は、こちらに行きましょう。しかし、裏口からは入城できません。
The station is over 20 minutes south of the castle, and 30 minutes south from the town area. Depending on the time, scheduled buses run from the train station to the bus station in the town center (costing 5 UAH as of August 2018). You can also use the taxis in front of the station. If you walk, you need to head directly north of the station (the station building is out the north exit), and turn right at the main road (Highway M 09). If you turn left on the next northbound street (Markiyana Shashkevycha Street), you will see a beautiful wooden church and a pond. As you pass by a park and approach the center, the sidewalks become neatly interlocked and you will find yourself in a very nice residential area with flower beds and vegetation (similar to the residential area around Tama). Some of the houses in this area date back to before the war (according to the locals these are mostly Polish-era red brick houses). If you turn right at the little park, there is a school on the left-hand side. At the end of this is a restaurant-cum-souvenir shop, and if you walk up the hill next to it you will find the castle entrance. If you want to see the stone walls and moat, you need to go this way. However, you cannot enter the main area of the castle from the back entrance.

市街地はお城よりさらに北ですが、古い教会がいくつかあります。リヴィウからのバスが発着するゾーロチウ-1バス駅は市街地にあります。バス駅を出て左折、広場のある南の方へ道なりに進みますと、自ずとそのレストラン兼お土産物屋のところに出ます。
The town area is even further north from the castle, and has a few old churches. Buses to and from Lviv can be found in the town from the bus station “Zolochiv-1”. If you turn left after getting off the bus, and head south through the town square and its connecting street, you will find end up by the restaurant-cum-souvenir shop I mentioned above.

現在のダイヤですと、リヴィウを昼頃の急行列車で出て、夕方17:45発の普通列車で帰ってくると鉄道で無理なく日帰り旅行ができます。リヴィウから行くのには最も難易度の低い観光地の一つですので、足を伸ばしてみるとよいかもしれません。
According to current schedules, you can easily make a day trip to Zolochiv by departing Lviv around lunchtime on the express train, and returning around 17:45 on the local train. It is a fairly easy tourist attraction to reach from Lviv, so you can even explore a little further while you’re out there.

【参考文献・サイト / References】
Мацюк О. Я. Замки і фортеці Західної України. Мандрівки історичні. Львів: Центр Європи, 2013. С. 30–33.
Палков Т. Західна Україна. Частина II. Львів: Ладекс, 2011. С. 17–21.
Олейнікова Т., Галас Т., Муц Т. Китайський палац у комплексі музею-заповідника «Золочівський замок». Львів: Світ, 2007.
Золочів // Замки і храми України [https://www.castles.com.ua/zolocow.html] (2018年8月5日閲覧、以下同じ).
Історія Золочева // Мандруємо Україною [https://ukrmandry.com.ua/index.php?id=357].
Історія Золочева: легенди та маловідомі факти (郷土史家による解説) // Золочів.нет [https://zolochiv.net/istoriya-zolocheva-lehendy-ta-malovidomi-fakty/].


2018年6月 活動日誌 / June 2018 Activity Report

2018年6月30日 / June 30, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【2017年度が終わり / The 2017 Academic Year Ends】
コーディネーターは5月は一時帰国していたため、ひと月飛んでの更新です。
さて、学年が9月から始まるウクライナでは、今の時期が一学年の終わりに当たります。
I went home for a while in May, so this month’s report will skip the time I was away. Anyhow, in Ukraine, the academic year begins in September, and so this month marks the end of the current academic year.

5月から6月にかけて、諸々の試験が実施されました。以前にも説明しましたが、試験はザーリク(Залік)と呼ばれる合否判定のみの試験と、イースペィト(Іспит)と呼ばれる優良可3段階およびA~Eの5段階(前者は国内向け評価、後者は外国向けに換算した評価。左記以外に、不合格に当たる「不可」と「F」評価がある)がつけられる試験との2種類に分かれます。本試験で不合格となり、追試でも合格しない場合は退学処分となります。留年という制度はなく、退学になるのは厳しいように思いますが、逆に言うと、向いていないコースを延々と続けさせるよりは、早いうちに進路の変更を促す方が親切である、という考え方があるようです。
Throughout May and June, many exams were held. I wrote about this before in a previous report, but there are two types of exams in Ukraine; the pass-fail Zalik (Залік), and the 3-level (“excellent, good, pass”) or 5-level (A-E) Ispyt (Іспит) (3-level is the national grading system, 5-level is the international grading system. The failing grades in these systems are known as “fail” or “F” respectively). Failure to pass these exams, and the supplementary exams, is grounds for expulsion. While I think not having the option to repeat a year is very harsh, I suppose it is good in the sense that it encourages students to change their pathways early instead of continuing courses they aren’t really suited for.

学生にとって恐らく最もシビアな問題は、成績が悪いと国からの奨学金がすぐに打ち切られる、ということかもしれません。成績をつける期間になると、テストができなかった学生の保護者から教師へ電話がかかってくるのが恒例になっているようです。大抵は手遅れなので、どうにもなりません。賄賂は固く禁止されています。
Probably the most severe problem for students though, is that their scholarships can be cut off immediately if they receive bad grades. Usually it is too late, so they can’t do anything about it. Bribes are strictly forbidden.

学士4年生の卒業試験は4科目で、学外の先生を審査委員長に行われます。本年は、ルハーンシク大学の先生が審査委員長を務めて下さいました。ルハーンシク大学は、ルハーンシクがロシア軍に占領されているため、同州のスタロビーリシクに疎開しています。しかし、所謂「LNR政府」の禁止によってルハーンシクから転出することができず(同政府によると、「若者は共和国を守るためにウクライナのファシストと戦うべきだ」とのこと)、ルハーンシクに留まって通信教育で授業を受けている学生が少なくないとのことでした。修士課程の学生の卒業審査は、論文審査のみです。
Fourth year undergraduate students have four final exams, which are judged by an examination committee chairman from outside of the university. This year, a professor from the Taras Shevchenko National University of Luhansk filled this role. Since the University of Luhansk is currently being occupied by the Russian military, the people there have been evacuated to Starobilsk, a city in the same Oblast. However, due to restrictions imposed by the so-called “Luhansk People’s Republic” (LNR), many people have been unable to leave Luhansk (the LNR claim that “young people should fight Ukrainian fascists to protect the republic”), and so it seems quite a few students have stayed in Luhansk and are taking classes via correspondence. Master’s students are graded solely on their thesis defense.

試験期間がすみますと、6月末から7月初頭にかけては実習が実施されます。授業の延長のようなことをする場合もありますし、バスで名所旧跡を巡る社会科見学のようなことをする場合もあります。コーディネーターは、3年生の児童文学の講読の実習に少し参加しました。
When the exam period ends, workshops are held from late June to early July. Some workshops are essentially extensions of classes, and others are educational field trips in which students go around scenic and historic places by bus. I held a critical reading workshop on children’s literature with my third-year students.

試験が終わると、試験で疲れた学生たちはすっかり夏休み気分になって、学生の多くが実家に帰ってしまいます。ところで、リヴィウ大学は地元以外から来ている学生がとても多く、この前の授業のときに1年生に出身を聞いたのですが、そのとき来ていた学生のほとんどがリヴィウ以外の町から来た人でした。リヴィウの近くの町や、ウクライナ中部、遠くはドネーツィクから来ているという学生もいました。
After exams, most students are exhausted and go home to get in the summer vacation mood. Incidentally, many students at the University of Lviv come from out of town, and, the other day, when I asked the first-year students in my class where they all came from, most of them were from towns outside of Lviv. There were students who came from towns near Lviv, central Ukraine, and even as far as Donetsk.


2018年4月 活動日誌 / April 2018 Activity Report

2018年5月1日 / May 1, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【新学期】/【The New Semester】
1年生は、3月から、教科書の勉強のほかに、日本語の文字の書き方のおさらいをしています。日本語の文字は上から下へ、左から右へ書くのが基本と思いますが、ウクライナ語は下から上に書く場合も少なくなく、左右の動きも多様で、また文字の最後も下に向かって止める・払うより次の文字に滑らかに繋げるため上に向かって払うことが少なくないのですが、その影響か、ウクライナの学生の日本語の文字の書き方も下から上、右から左になってしまうことが多々あります。例えば、「う」や「え」の点を後から打ったり、「は」の最後の右の部分が、下に向かわず上に向かってぐにゅんと曲げて払ってしまう癖のある人も少なくありません(尤も、我々も横書きで早く書くとそうなることがあるようですが)。/ From March, the first year students have been studying their textbooks and reviewing how to write Japanese characters. Japanese characters are usually written from the bottom down and left to right. However, Ukrainian is often written from the bottom up, and the sideways movement varies. Also, in Ukrainian, the end of each character tends to link to the next one as opposed to finishing in a downwards sweep. Because of this, many Ukrainian students tend to write Japanese characters from right to left and bottom to top. For example, they tend to write the top stroke of “u” and “e” last, and make the last stroke on the right side of “ha” flick upwards instead of down (although it seems that even native speakers do this when writing horizontally in a hurry).
学生たちは漢字が難しいと思っていることが多いですが、ひらがなもなかなか難しいのではないでしょうか。「とめ・はね・はらい」を明確に区別しつつ、堂々として流麗な曲線を引かなければなりません。これは難易度が高いです。そこで、自分も特に字が上手なわけではありませんが、日本語の文字の書き方の基礎練習として、ひらがなのおさらいに取り組みました。練習を真面目にやった学生は、見違えるほど字が綺麗になったと思います。今後は、ひらがなのおさらいをしつつ、カタカナの練習にも取り組みたいと思います。/ Many students think kanji is difficult, but I think even hiragana is a challenge. With hiragana, you have to be able to distinguish between the stops, curls and flicks, and consistently produce flowing strokes. It is very difficult. Because of that, and considering I’m not particularly great at writing myself, I got the students to practice writing Japanese characters through a hiragana review. Looking at the students’ work, it was really obvious that the writing of those who practiced hard had improved drastically. Next time, I want to review hiragana again, and also add katakana into the mix.
ウクライナでは、日本語に関してもヨーロッパ的な教育方針が重視されていて、読み書きより会話に重きが置かれているように感じます(尤も、日本から入手している日本語教材も多くが会話重視、話し言葉優先のように思いますが。もちろん、教材によりますし、カリキュラム上どの教科書を選択するか、ということにも左右されます)。ヨーロッパ語は文字が大体同じなので書くより会話が重視されるのはわかるのですが、日本語でそうすると、「読めるが話せない」の日本人の逆のパターンになりまして、相当自由に話せるのに読み書きが今ひとつということになりがちです。書いた文字がオリジナルすぎて判読できない、読解力がないなどの問題です。読む方は一朝一夕には向上しませんが、書く方は比較的短期間で向上するようなので、今後の著しい改善が期待できると思います。ウクライナで現在、日本語関係の仕事があるとすれば(ほとんどないのですが)、翻訳の仕事ではないかと思います。企業関係の翻訳や、輸入品(工業製品など)の仕様書、取扱説明書の翻訳があるようです。とすると、会話以上に読み書きの能力が問われるのではないでしょうか。/ In Ukraine, Japanese language education follows a European-esque education system, so I feel that much more focus is put on speaking rather than reading and writing (the majority of teaching materials imported from Japan and used here seem to focus on speaking and spoken Japanese. This of course can change depending on the materials and curriculum textbooks chosen for a class). European languages generally use the same writing systems, so I understand why they focus more on speaking, but if you do the same with Japanese, the students will just end up falling into the opposite of the “I can read but not speak” pattern that native Japanese foreign language learners suffer from. It becomes a problem of students having very “original” illegible handwriting and a very low level of reading comprehension. While you can’t learn to read in a day, writing seems to be an ability that one can grasp relatively quickly, so considerable results like the ones achieved through this review can be expected. Most jobs in Ukraine that are related to Japanese (there are not many) are usually translation jobs. These jobs appear to include translating business terms, documents on imported goods, and instruction manuals. In this case, reading and writing competency is more important than speaking ability.


2018年3月 活動日誌 / March 2018 Activity Report

2018年4月1日 / April 1, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【新学期】/ 【The New Semester】
ウクライナでは、2月から後期学期が始まりました。3月は特にてらいもなく通常授業なのですが、その中で今学期からの新しいことというと、日本語を学ぶ1年生にもネイティヴの授業が行われようになりました(入学したばかりの前期はネイティヴとの授業は困難であるということから、1年生との授業は行われません)。1年生はまだ大勢の学生がいて名前を覚えるのも大変ですが、多くの学生が熱心に日本人との授業に取り組んでくれます。/ In Ukraine, the second semester started in February. Classes in March happened as per usual, and first-year Japanese majors had the opportunity to take a new class taught by a native Japanese teacher (these classes were not held for first-year students before, as it was deemed too difficult). There are many first-year students, and I can’t remember all their names yet, but many of these students are working hard in this class.

【ロシアの圧力による休講とルネサンスの理想都市】/ 【School Closure and the Renaissance-Style Ideal City】
先月の日誌で書きましたように、新学期が始まって間もなく、ロシアのウクライナに対する圧力により、3月第二週は全学休講となってしまいました。授業がなくなったので、週末にリヴィウの近くの町を見学してきましたので、今回はその話をしたいと思います。 / As I mentioned last month, the university closed during the second week of March, just as the semester was starting, due to pressure from Russia. Since I had no classes, I visited a town near L’viv, and so I would like to talk about that this month.
ウクライナにはかつて、多くの城郭都市が存在しました。リヴィウもそのひとつなのですが、多くの都市はその後衰退して村に落ちぶれるか、逆に発展して元の城郭が破壊され、いずれにしても原型を留めていません。そんな中、リヴィウ州ジョーウクワ市(Жовква)は今日まで立派にルネサンス時代の「理想都市」の形を残している稀な例であると言えるでしょう。 / There used to be many walled cities in Ukraine. L’viv is one of these cities, but many other cities fell into ruin and became villages, and many others developed and took down their walls. Essentially, these cities did not preserve their original structures. However, within these cities, there is one rare example of a well-preserved renaissance-style ‘ideal city’, a city in the L’viv Oblast called Zhovkva.
16世紀には、ウクライナの諸侯は西欧文明を摂取するため、挙って子弟を留学させるようになります。特に、ルネサンス文化の花開いたイタリア、オランダ、ドイツ諸邦は好んで留学先に選ばれました。その中で、トマス・モアやカンパネッラの理想都市論に触発された彼らは、ウクライナ各地にそれぞれの「理想都市」を作ろうとします。ジョーウクワ市は、そうした潮流の中で生まれた「理想都市」でした。ジョーウクワはポーランド語名では「ジュウキェフ」(Żółkiew)と言いますが、これは都市の創設者、スタニスワフ・ジュウキェフスキ(Stanisław Żółkiewski, 1547–1620)に由来します。ジュウキェフスキは、イタリア人建築家たちを招き、自らの「理想都市」を具現化しました。元々あったヴィーンネィケィ村(現在はジョーウクワ市の一部)の辺りに、「理想の人体バランス」を模して幾何学的平面形を持つ城壁が新たに築かれ、城館、教会、役場、イタリア風の歩廊(アーケード)付住宅(すぐ商店街となった)など主要な建築物が計画的に配置されました。城の裏手には、ルネサンス庭園が造られました。この都市では、様々な民族や宗派の人々が調和的に共存する理想の世界の構築が目指されました。一方で、外敵の侵入に耐えるため、堅固な稜堡式城郭としての機能も備えました。城の背後はスヴィニャー川によって守られ、他の辺には水堀が掘られました。さらに、城壁の周囲には多くの稜堡が設置され、防御のための塔も建てられました。各教会は祈りの場となると同時に、分厚い壁と塀に囲われた防御施設としての機能も持たされました。城壁は大砲や鉄砲で武装が施されました。/ In the 16th century, to adopt to Western civilization, the lords of Ukraine had the younger generation go abroad on exchange. In particular, they were sent to countries where renaissance culture was blossoming, such as Italy, Holland and Germany. This generation, inspired by the ‘ideal city’ theories of Thomas More and Campanella, sought out to build these ‘ideal cities’ all over Ukraine. Zhovkva is one such ‘ideal city’ built during this trend. Zhovkva is called Żółkiew in Polish, which is due to the name of the founder of this city, Stanisław Żółkiewski (1547-1620). Żółkiewski invited Italian architects to Ukraine to make his ‘ideal city’ a reality. A new geometrical rampart imitating the ‘ideal human body balance’ was built near the village of Vynnyky (now a part of Zhovkva), followed by the planned construction of important buildings such as a castle, a church, a town hall, and houses with Italian-style arcades (which quickly became shopping districts). Behind the castle, a renaissance garden was made. This city was designed with the aim of constructing a world where people of different races and religions could live together in peace. On the other hand, to deal with enemy invasions, the design of this city also functions as a solid bastion fort. The back of the castle is protected by the Svynia River, and moats were dug in other areas. In addition to this, many bastions and towers were constructed around the castle walls for defense. Each church served as a place of prayer, and, at the same time, their thick walls and fences made them defensive structures. Armament such as cannons and guns were later added to the walls.

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西側城壁とフレィーンシク門(クラクフ門)/ The western wall and the Glynska Gate (Krakow Gate)
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ジョーウクワ城。ルネサンス様式の稜堡式城塞(ただし正面の白い石で囲われた門は マニエリスム様式、また後代にバロック様式に改築された箇所がある)。/ Zhovkva Castle. A renaissance-style bastion fortress (however, the gate surrounded by white stone is Mannerism-style, and the later generations rebuilt some parts in Baroque-style).

ポーランド=リトアニア共和国が分割されて滅亡すると、ジョーウクワはオーストリア帝国の領土となります。第一次世界大戦後は、西ウクライナ人民共和国、ポーランド共和国領となりました。/ When the Polish-Lithuanian Commonwealth was divided and collapsed, Zhovkva became a territory of the Austrian Empire. After World War I, it became territory of the West Ukrainian People’s Republic and the Polish Republic.
1941年まで、ウクライナ人、ポーランド人、そして多くのユダヤ人が暮らしていましたが、ソ連軍が侵攻すると多くのウクライナ人住民が虐殺され、その後ナチスに占領されるとユダヤ人の多くが虐殺されるか、逃亡を余儀なくされました。このとき、ユダヤ人を匿った町民の史料が新市庁舎の博物館に展示されています。結局、ジョーウクワにいて生き残ることのできたユダヤ人は、70人程度だけであったといいます。1940年代には、ウクライナの独立派とソ連軍とのあいだで熾烈な戦いが行われました。特に、1945年3月22日には、ジョーウクワ郊外でウクライナ蜂起軍(UPA)とソ連の秘密警察(NKVD)の部隊との戦闘が生じ、UPAが勝利しました。しかし、衆寡敵せず、ウクライナの独立は頓挫しました。/ Until 1941, many Ukrainians, Polish, and Jewish people lived in Zhovkva, but when the Soviet army invaded, many Ukrainians were killed. Following this, during the Nazi occupation, many Jewish citizens were either killed or left with no choice but to flee. Historical records of townspeople who helped hide Jewish people during this time are on display in the new city hall’s museum. In the end, there were only 70 Jewish people in Zhovkva who managed to escape persecution. In the 1940s, a fierce war between pro-independence Ukraine and the Soviet army occurred. In particular, on the 22nd of March 1945, forces of the Ukrainian Insurgent Army (UPA) and the Soviet Secret Police (NKVD) battled in the outskirts of Zhovkva, which resulted in a victory for the UPA. However, being hopelessly outnumbered, the independence of Ukraine came to a standstill.
ソ連に併合されると、1951年、ポーランドの英雄の名を冠した町の名はロシアの英雄ピョートル・ネステーロフ(帝政ロシアの飛行士)の名に改称され、ネステーロフ(ウクライナ語でネステーリウ)となりました。ウクライナの独立により、歴史的な名称に戻されました。/ After annexation into the Soviet Union, Zhovkva, which was named after a Polish hero, was renamed Nesterov (Nesteriv in Ukrainian) in 1951, after the Russian hero, Pyotr Nesterov. After Ukraine gained independence, the city returned to using its historical name.
今日、町には驚くほどの南国風情があり、イタリアの小都市に来たかのような印象を受けます(同時に、小ポーランド地方の地方都市にも似た雰囲気もあります)。/ Today, the city has an unbelievable southern charm, and I was under the impression that I had come to a small Italian city (at the same time, it had a similar atmosphere to Polish provincial cities).

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イタリア風の歩廊(アーケード)付住宅 / The houses with Italian-style arcades
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そのアーケード内 / Inside the arcades

ジョーウクワ城は、正面は綺麗に補修されているものの、中庭側と川側は修復予算が尽きて半ば荒廃した状態となっております。今後、修復工事が予定されているという報道が昨年末頃ありました。この城と新市庁舎は博物館となっています。ちなみに、市庁舎の存在は、この町がかつて自由都市であったことを物語っており、市民社会も古くから発展していたことが伺えます。教会は観光向けにはあまり機能しておらず、見学できるのは決まった時間(張り紙があります)のミサの時間の前後のみです。また、多くの教会は館内の撮影が禁止されています(お願いすると撮影させてもらえる場合があり、お礼に寄進しました)。/ The Zhovkva Castle has been beautifully repaired from the front, but as a result the restoration budget was used up, so the courtyard area and riverside area are still in ruin. Around the end of last year it was reported that there are plans to further restore the castle. This castle, and the new city hall, are now museums. Incidentally, the existence of this new city hall tells the story of how Zhovkva was once a free city, and it can be said that civil society has been developing in Zhovkva since a long time ago. The churches are not very tourist-oriented, so you can only enter them at determined times (displayed on signs) before and after Mass. Also, many churches prohibit photography (although you can often get permission by asking, and I donated money as a thanks for allowing me to take photos).

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同教会の内陣天井に施されたマニエリスム様式装飾(カルトゥーシュ)。許可を得て撮影。/ The church I visited. The Mannerism-style decoration (cartouche) that was added to the ceiling of the chancel. I had permission to take this photo.

ジョーウクワはルネサンス様式の都市ですが、ローマ=カトリック教会の聖ラウレンティウス教会では内陣天上にマニエリスム様式の装飾を見ることができます。また、地下墓所にジュウキェフスキの棺が収められています。現在ウクライナ・ギリシャ=カトリック教会の管轄となっている聖心教会では、リヴィウ州出身の画家ユリアーン・ブツマニュークによる美しいステンドガラスや壁画を見ることができます。ヨーロッパ最大規模を誇るシナゴーグは、地上高を抑えつつ最大限の内部空間を確保するため半地下造りとなっています。/ Zhovkva is a Renaissance-style city, but in the chancel of the Roman-Catholic church, the St. Lawrence Church, Mannerism-style decorations can also be seen. Also, the coffin of Żółkiewski is kept in the church’s underground graveyard. At the Church of the Sacred Heart, currently under the jurisdiction of the Ukrainian-Greek Catholic Church, you can see a beautiful stained glass mural made by artist and L’viv Oblast native, Yulian Butsmaniuk. Boasting as the largest structure in Europe, the Synagogue in Zhovkva was built half underground to secure maximum internal space while also controlling the amount of earth.
【町の所有者】/ 【Owner of the City】
町を建設したスタニスワフ・ジュウキェフスキは、16~17世紀にヨーロッパに冠たる強国であったポーランド=リトアニア共和国の最盛期における、ポーランドの国民的英雄です。ジュウキェフスキ家は、祖先が正教徒であったこと、ルーシ人(ウクライナ人)の多く居住する地域の出身であったことから、ルーシ(ウクライナ)系ポーランド士族と考えられています(共和国では民族と宗教を一致させて考えていたので、正教徒ならばルーシ人、ということになります)。17世紀初頭には、ウクライナ各地に跨る領地を知行する大名として知られました(ちなみに、ウクライナの成田空港こと、ボレィースピリ空港の辺りも彼の所領でした)。ジュウキェフスキについては、後段でもう少し話をしましょう。/ Stanisław Żółkiewski, who built this city, was a national hero of the once strong European nation, the Polish-Lithuanian Commonwealth, during its Golden Age in the 16th and 17th centuries. Since the ancestors of the Żółkiewski family were Eastern Orthodox, and from an area where many Ruthenians (Ukrainians) lived, it is thought that the Żółkiewskis are of Ruthenian-Polish lineage (in the Commonwealth, race and religion were thought of as the same thing, so it can be assumed that they were Ruthenian since they were Eastern Orthodox). In the early 17th Century, he was known as the magnate who ruled many territories that spread across Ukraine (Ukraine’s Boryspil International Airport was also his territory). I will talk more about Żółkiewski further below.
ジュウキェフスキ家の断絶後は、婚姻関係により、ウクライナ系の別の大名、ダネィローヴィチ家、ソビェスキ家の所領となりました。第二次ウィーン包囲で活躍するポーランド王、ヤン3世ソビェスキ(Jan III Sobieski, 1629–96)の育った町としても知られています(ジョーウクワには、彼の兄の心臓の収められた聖ヨサファート教会があります)。/ After the end of the Żółkiewski line, different Ukrainian magnates from the Danylovych and Sobieski families inherited these territories through marital relations. Zhovkva is also known as the hometown of Jan III Sobieski (1629-96), the Polish king famous for fighting in the Battle of Vienna (the Saint Josaphat Church that his brother dedicated himself to is also in Zhovkva).
ジョーウクワの「郷土の英雄」はこのスタニスワフ・ジュウキェフスキとヤン・ソビェスキですが、もう一人、名前を挙げることができます。ウクライナ史上不出生の英雄とみなされる、ウクライナ・コサックの将軍、ボフダーン・フメリネィーツィケィイ(Богдан Хмельницький, 1595–1657)です。ウクライナ独立運動の指導者として知られる彼の生まれはジョーウクワである、というのです。彼の出生地については諸説ありますが、ただ、彼の父メィハーイロ・フメリネィーツィケィイはジョーウクワでジュウキェフスキに仕えた士族であって、ボフダーンの生年がちょうど父のジョーウクワ滞在の時期に当たるというのが、この説の最大の利点でしょう。その後、ジュウキェフスキの娘がイワーン・ダネィローヴィチに嫁いだ際にフメリネィーツィケィイもダネィローヴィチ家に移りますが、その長年の奉公に報いてスーボティウに恩地を下賜されます(この領地を無法に取り上げられたことが、共和国を揺るがす大乱、1648年のフメリネィーツィケィイの乱の原因となります)。/ Stanisław Żółkiewski and Jan III Sobieski are known as the ‘local heroes’ of Zhovkva, but there is also one other name worth mentioning. This is Hetman of the Ukrainian Cossacks, Bohdan Khmelnytskyi (1595-1657), who is regarded as a hero of unknown birthplace in Ukrainian history. It is said that this hero, who is famous for being a key figure in the Ukrainian Independence Movement, was born in Zhovkva. There are various theories regarding the birthplace of Bohdan Khmelnytskyi, but since his father, Mykhailo Khmelnytskyi, was from a clan serving Stanisław Żółkiewski in Zhovkva, and living in Zhovkva during the estimated period of Bohdan’s birth, it can be theorized that Bohdan Khmelnytskyi was born in Zhovkva. Later in life, when Żółkiewski’s daughter married into the house of Ivan Danylovych, Khmelnytskyi also began serving the Danylovych clan, but was granted land in Subotiv as a reward for his long years of service under Żółkiewski (accepting this territory unlawfully is an act of rebellion against the commonwealth, which led to the revolt of Khmelnytskyi in 1648).

【英雄スタニスワフ・ジュウキェフスキ】/ 【The Heroic Stanisław Żółkiewski】
スタニスワフ・ジュウキェフスキは、リヴィウ城代、キエフ守護、ポーランド軍元帥である王冠領大将軍など、ポーランド王国の重要な官職を歴任しました。彼の関わった歴史的事件の中で特に有名なのは、ウクライナ史においてはナレィワーイコの乱(1594–96)の鎮圧でしょう。ウクライナ文学では、彼は、ウクライナの英雄、セヴェレィーン・ナレィワーイコの好敵手として、政府軍の側の英雄として登場します。また、フメリネィーツィケィイや、ウクライナ民謡の主人公としても知られるステーファン・フメレーツィケィイなど、多くのウクライナ人士族が彼のもとで軍学を学びました。ポーランドやロシアの歴史を学ぶ人に馴染み深いと思われるのは、1610年のクルシノの戦いですね。これは、ロシア史で「動乱時代」と呼ばれる時期に起こった合戦です。ジュウキェフスキ率いる共和国軍は、ドミートリイ・シューイスキイ公およびヤコブ・デ・ラ・ガルディの指揮するモスクワ・スウェーデン同盟軍を撃破し、ポーランド=リトアニアの名を天下に知らしめました。このとき、彼が主力として用いた驃騎兵(フサリア)は輝く銀色の甲冑に身を包み背に翼を生やした独特の姿で知られ、後年の第二次ウィーン包囲での活躍と合わせて、「無敵のポーランド騎兵」の象徴となりました。モスクワのツァーリ、ヴァシーリイ4世はこの大敗北により退位を余儀なくされ、ジュウキェフスキによってワルシャワへ連行されます。モスクワに入城した共和国軍は、ポーランド王子を迎えます。/ Stanisław Żółkiewski held all of the important posts of the Kingdom of Poland, such as the Castellan of Lviv, Voivode of Kyiv, and Great Crown Hetman (general) of the Polish Army. Of all the historical incidents he was involved in, the most famous, in Ukrainian history, is probably the Nalyvaiko Uprising (1594-96). In Ukrainian literature, Stanisław Żółkiewski appears as a hero of Ukraine on the side of the government forces, a worthy opponent for Severyn Nalyvaiko. Also, many Ukrainian nobles learnt military strategy under his wing, including Khmelnytskyi and Stefan Khmeletskyi, the latter who is known for appearing in many Ukrainian folk songs. Those studying Polish or Russian history will probably be familiar with the Battle of Klushino in 1610. This is a battle that occurred during a period of Russian history called the ‘Time of Troubles’. The Commonwealth army, led by Żółkiewski, crushed the Moscow-Sweden Alliance forces led by Prince Dmitriy Shuyskiy and Jakob de la Gardie, making the name ‘The Polish-Lithuanian Commonwealth’ known to the whole world. At this time, the cavalry (Hussar) that Żółkiewski used as his main force were known for their unique appearance, namely their shining grey winged armor, and became a symbol of the ‘unmatched Polish cavalry’. The Szar of Moscow, Tsar Vasiliy IV Shuyskiy, was forced to abdicate the throne, and was dragged to Warsaw by Żółkiewski. The Commonwealth army who conquered Moscow became Polish royalty.
ジュウキェフスキはまた、その壮絶な最後で知られます。1620年、ツェツォラにおけるオスマン帝国との戦いで共和国軍は壊滅し、ジュウキェフスキも大将軍として最後まで剣を振るって戦いましたが、奮戦虚しく討ち死にを遂げました。その首級はスルタンのもとへ送られ、槍に刺して都の大路を引き回されたとされています。後世、軍旗を守って孤軍奮戦するジュウキェフスキの絵画がいくつも書かれました。/ Żółkiewski is also known for his heroic death. In 1620, the Commonwealth Army was annihilated in the Battle of Cecora (Ţuţora) by the Ottoman Empire, and as the commander-in-chief, Żółkiewski fought with his sword until the very end, but he fought vainly and died in battle. His head was sent to the Sultan, which was then stuck on the end of a spear and paraded around the streets of the city. Afterwards, a number of paintings of Żółkiewski fighting hard to protect the battle flag all alone were painted.
彼の活躍は軍事面に留まらず文化活動にも及び、リヴィウではイエズス会コレギウムの開設者としても知られます(このコレギウムではボフダーン・フメリネィーツィケィイやヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィケィイ公など、多くのウクライナ貴族やコサックの子弟が西欧の学問を学びました)。そして、彼の建てた「理想都市」ジョーウクワには、彼の理想を形作る多様な宗教の建築物が、彼の命(めい)により建造されています。すなわち、彼は自らの宗教であるローマ・カトリックの寺院(聖ラウレンティウス教会)のみならず、正教徒のための寺院(聖心教会、キリスト生誕修道院)、ユダヤ人のためにシナゴーグを建てさせました。こうした多くの宗派が融和的に一つの都市空間に居住することが、彼の目指すルネサンス都市の理想形だったのです。この理想を考えると、彼の生涯が実際には常に他宗派との戦いに傾けざるを得なかったことは残念な皮肉のように思われます。/ Żółkiewski’s activities were not limited to the military, as he also carried out cultural activities, and is in fact known as the founder of the Jesuit College in Lviv (the college where many Ukrainian nobles and young Cossacks Bohdan Khmelnytskyi and Prince Yarema Vyshnevetskyi studied Western European learnings). Also in the ‘ideal city’ of Zhovkva that Żółkiewski built, buildings of various religions were constructed by his order in an attempt to achieve this ideal. Essentially, Żółkiewski not only built a Roman Catholic church (St. Lawrence’s Church) for his own religion, but also built places of worship for Eastern Orthodox believers (Church of the Sacred Heart, Monastery of the Nativity) and synagogues for Jewish people. The idea of all these religions existing together harmoniously in one city is the Renaissance city ideal he was aiming for. When you think about it, it’s kind of ironic that he had to spend his life fighting battles against other religious sects.

【行き方】/ How to Get There
リヴィウからは、バスや鉄道で簡単に行くことができます(ちなみに、グーグルマップではジョーウクワ駅はなんと「ネステーリウ=リヴィーウシケィイ」というソ連時代の名称で記載されています。そもそも、グーグルではウクライナ自体が「ウクライナ共和国」というソ連時代の名称で登録されていますね)。所要時間は、リヴィウ駅か中心部から1時間~1時間半程度と考えてよいでしょう(リヴィウの北バス駅から30分程度なので「リヴィウから30分!」と紹介されますが、実際には中心部から出掛けてバスに乗るまでに30分はかかります)。バスでもそれほど不快ではないです。鉄道は、ポーランドとの国境のラーワ=ルーシカまで普通列車のみ運行されていますが、車両は寝台車でしたので、寝ようと思えば寝られます。/ From Lviv you can easily get a bus or train (by the way, on Google Maps, Zhovkva Station is shown with its Soviet era name, Nesteriv-Lvivskyi. In fact, Ukraine is still called ‘The Ukrainian Republic’, its Soviet era name, on Google). I think it takes about an hour to an hour and a half from Lviv station or the central part of Lviv (as it takes about 30 minutes to the central area from the ‘Pivnichnyi’ bus terminal, which is advertised as ’30 minutes to Lviv!’, despite taking 30 minutes just to get on the bus). The bus itself is not that uncomfortable. The train runs until the Rava-Ruska border with Poland, and although it is just a regular train, it has couchette cars, so you can sleep.

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ジョーウクワ駅ホーム(ChME3型ディーゼル機関車牽引の寝台車2両で編成されたリヴィウ行き普通列車)。/ Zhovkva Station Platform (an example of a regular train, a ChME3 diesel locomotive, pulling a converted couchette car).

2018年2月 活動日誌 / February 2018 Activity Report

2018年3月5日 / March 5, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【ロシアの圧力による新学期の混乱】/【A Confusing Start to the Semester】
今年のウクライナの大学の多くは、例年より遅く2学期(ウクライナの大学は通常2学期制です)を始めました。というのは、暖房を節約するためだそうです。リヴィウ大学でも、2月最終週から後期日程が始まりました。ちょうど今年一番の冷え込みの時期に当たり、風邪を引く人続出です。/ Majority of universities in Ukraine this year started their second semester (Ukrainian universities generally follow a two-semester system) later than usual. This is apparently to cut back on indoor heating costs. Even at L’viv University, the second semester didn’t begin until the last week of February. Since this is the time of year when things start cooling down, many people are catching colds.
ところが、新学期が始まって間もなく、各教育機関に対して3月第二週の休校を命ずる大統領令が発せられました。これは、ロシアによるウクライナに対するガス供給停止措置を受けたもので、連日零下20度前後となる中、エネルギー不足による暖房停止という緊急事態を未然に防ぐためのものでした。その後、EU各国の協力により必要な燃料が確保されたことから教育省は通常授業の実施を通達しましたが、すでに週末となっており、全国から集まっている大学生の中には帰省してしまった者も少なからずいて(第二週には元々連休がありました)、突然授業を再開するのは困難であるとの判断から、結局多くの大学は最初の大統領令に基づき休講としたようです(地元の子どもたちが通う小学校~高校相当の学校は、通常授業となったようです)。リヴィウ大学もその例に漏れず、です。/ However, just as the new semester began, an executive order was issued that all educational institutions are to close during the second week of March. This was in response to Russia suspending gas supply to Ukraine, and was designed to prevent energy shortage-related emergencies, such as heating shortages, during the minus 20 degree weather. After this, with the assistance of the EU, enough fuel was secured, schools were reopened and students were informed that classes would go on as normal. However, since it was a weekend, many students had gone back home (there were actually consecutive national holidays in this week anyway), and many universities decided it was too difficult to suddenly start classes again, so many universities stayed closed as per the executive order (although it seems that elementary through high school institutions held classes as per usual). L’viv University was closed without exception.
2014年の開戦以来、ウクライナでは慢性的なエネルギー不足となっており、最近では一頃よりは改善しましたが、照明は非常に暗く(今は違いますが、以前数えたところ、特急列車の車内照明は7基に1基しか点灯していませんでした)、暖房も最低限のものとされていて、さらに外国人には目につかないようなところ(例えば工場の稼働率等)に影響が出ているのではないかと推測されます。東京都民としましては、2011年の春先の状況を少し思い出します(さすがに戦時中のことを思い起こすほど年ではありません)。今回の新学期の混乱もこうした文脈に位置づけられますが、いつか問題が解決する日が来るのでしょうか。/ Ever since the start of Russian military intervention in 2014, Ukraine has suffered chronic energy shortages, and although this situation has improved over time, the lighting is still very dark (while it is not the case now, when I counted before, in each car of an express train only one out of seven lights were lit). Heating is still used at a minimum, and my guess is that the biggest changes are the ones not immediately noticeable to foreigners (for example, the number of operating factories). As a Tokyoite, I can remember a little bit of the situation in the beginning of spring 2011 (obviously I’m not old enough to be able to remember what it was like during the war). The confusion from this semester is a result of this historical context, but I hope one day this can all be solved.
エネルギー問題が本格化するのは毎年冬のことであり、本学のサマースクールの行われる9月には幸い深刻な影響は生じないものと思われます。皆さんも《ほどほどに》暗いウクライナを体験してみて下さい。/ This energy problem is ‘regularized’ every year by the Ukrainian winter, and so I don’t think it causes any serious problems for the TUFS Summer School program in September. I actually want everyone to experience this ‘dark Ukraine’, in moderation of course.


2018年1月 活動日誌 / January 2018 Activity Report

2018年2月5日/ February 5, 2018
GJOコーディネーター/ GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ大学への留学について】/ 【Going on exchange to L’viv University】
今月はリヴィウ大学が冬休みのため、本学で留学についての説明会を行いました。今回は、こちらでも留学情報を提供したいと思います。/ Since this month is L’viv University’s winter vacation, I held an information session on exchange opportunities with L’viv University at TUFS. This time, I also want to supply exchange information at L’viv.
今年度より本学とリヴィウ大学とのあいだに協定が結ばれ、交換留学制度が開始しました。リヴィウ大学から本学へは年1名、本学からリヴィウ大学へは長期(1年間)の希望者がある場合は1名、長期希望者のない場合は短期(ショートビジット、9月実施、3週間コース)で3名が募集されます。2017年9月には、本学から最初の留学生3名がリヴィウへ派遣されました。また、リヴィウ大学から1名が目下本学に留学中です。/ A partnership agreement was established between TUFS and L’viv University this academic year, and as a result we have opened some international exchange programs. Each year, one long-term exchange student from L’viv will be sent to TUFS, and one long-term exchange student (if there is an applicant) from TUFS will be sent to L’viv. If there are no applicants for the long-term exchange, TUFS will send 3 short-term (September Short Visit 3 Week Course) exchange students to L’viv. In September 2017, the first three short-term exchange students were sent to L’viv from TUFS. At present, there is one L’viv University student on exchange at TUFS.

【留学条件・研修内容】/ 【Conditions and Training for International Exchange】
留学中の研修は、ウクライナ語の習得が主たる目的となります。留学までにウクライナ語の文字を習得しておく必要があります。対象学年については特に規定はなく、昨年は学部1、2年生、修士1年生が派遣されています。/ As for the training during the exchange (at L’viv University), the main goal is the acquisition of the Ukrainian language. As a condition, prospective exchange students must learn the Ukrainian alphabet before coming to L’viv. There are no restrictions concerning year level, and of the students who came last year, two were first and second year undergraduate students, and one was a first-years master’s student.
短期ウクライナ語コースの講座内容は、今年度(2017年9月)の場合、午前は語学研修(ウクライナ語)、午後はその他の様々な講座(歴史・文学・民謡・言語学などの学術・教養講座、ウクライナ料理講座、伝統工芸の人形作り講座、市内や諸施設の案内など)が開設されました。/ The short-term Ukrainian course, as of September 2017, consists of language training (Ukrainian) in the morning, and academic /cultural lectures (on various topics related to history, literature and linguistics such as Ukrainian cuisine, traditional doll-making and city facilties).
宿泊は、大学の寮が無償提供されます。渡航費や交通費、食費は各自負担になります。食費は、学食が最も安く、次いでファミリーレストランで1食当たり300~400円程度と考えてよいでしょう(品目や品数によります)。/ As for accommodation, exchange students at L’viv University are provided with lodgings in the university dormitory free of charge. International and local travel expenses and food expenses are to be dealt with by the individual. The school cafeteria is very inexpensive, and a single meal at a family restaurant generally costs between 300 and 400 yen (although this can change depending on the food and amount).
また、昨年の留学生は週末を利用してキエフやオデーサへ小旅行を楽しんできたようです。/ Also, last year’s exchange students used their weekends to go on small trips to Kiev and Odessa, which they seemed to enjoy very much.

【ウクライナへの渡航】 / 【Getting to Ukraine】
ウクライナへは、日本国民ならば90日までビザなしで滞在ができます。特別な滞在登録も必要ありません。 / Japanese citizens can visit Ukraine for 90 days without a visa. There are no particular forms that must be filled in to so do.
日本からウクライナへの直行便は開設されていません。経路については、時期によって状況が変わりますので、留学が決まってからご相談下さい(深夜早朝の到着・出発は、寮~空港・駅間の交通手段が確保できない場合があるのでご注意下さい)。/ There are no direct flights to Ukraine from Japan. The route to Ukraine can vary depending on the season, so we advise that prospective exchange students buy their tickets once their exchange has been finalized (please be aware that travelling between the airport and the dormitory can cause difficulties for late-night and early morning arrivals/departures).

【リヴィウの状況】/ 【The Current Situation in L’viv】
治安は、これまでのところ特に心配する状況にはないと言って良いでしょう。東の端にある前線(例えばマリウーポリ)からリヴィウまでは寝台急行列車で2昼夜かかるほど離れていることもあり、直にきな臭い雰囲気を感じることはないと思います。また、西ヨーロッパにおけるテロ事件の影響を心配される方もいると思いますが、今のところ、ウクライナにおける同種のテロ事件は報告されていません。/ In terms of public safety, there is currently no cause for concern. The eastern frontlines (Mariupol etc.) are separated from L’viv by 2 days and nights via long-distance express train, and there are no signs of war in L’viv. While some students may be worried and influenced by the terrorist attacks in Western Europe, no attacks of this kind have happened in Ukraine.
勿論、今の世の中どこにいても何が起こるか予想はできず、そうでなくとも、海外では自分の国にいるとき以上に注意をする必要はありますが、よほど不運でない限り、リヴィウで政治的原因による事件に巻き込まれる危険性は低いと思います。/ Of course, regardless of where you are, it is impossible to predict what will happen, and so one must be more careful than when they are in their own country. However, it is very unlikely that an exchange student would get mixed up in politically-motivated troubles in L’viv.
治安状況としては、ウクライナ全体的に言えることですが、特別危険ということはありません。リヴィウは元々治安がよく、留学先としても観光地としても安心して滞在できる都市でした。海外旅行の際の常識的な注意点を守っていれば十分と思われます。また、警官が外国人を捕まえて賄賂を要求するといった、旧東側諸国にありがちな事案も特にありません。人種差別主義者による攻撃に遭う危険性も心配しなくてよいでしょう。/ Back to the public safety situation, and this can be said for all of Ukraine, there are no particular dangers awaiting students. L’viv in particular has always been a safe city, regardless of whether one visits as a student or a tourist. As long as one follows the general rules of travelling abroad, there should be no problems. Also, there are currently no concerns regarding police officers arresting foreigners for monetary bribes, which has been a big problem in the former Eastern Bloc countries. There is also no need to worry about being targeted by racist attacks.

【学期予定】 / 【The School Year】
リヴィウ大学は2学期制です。前期は9月から1月まで(その間に年末年始の休暇を含む)、後期は2月から6月中旬(その後7月まで実習期間)までとなっています。/ L’viv University follows the semester system. The first semester is from September until the following January (including the new year break), and the second semester is from February until mid-June (with a self-study period implemented until July).
長期休暇は、例年、冬休みが1月6日~2月8日、夏休みは7月15日~8月31日です。ただし、その年によって日程に変更の生じる場合があり、2018年は2月25日まで冬休みとなっております。/ The vacations each year are generally from January 6th to February 8th, and July 15th to August 31st. However, these dates are subject to change, and in 2018, the Winter break will end on February 25th.
長期休暇期間中は大学は原則として閉鎖(施錠)されており、入構できません。 / The University is closed during the vacations, and so students cannot enter the campus.
本年の研修期間は、恐らく、9月第一月曜から第三金曜までとなるのではないかと思われますが、まだ決定していません。 / The training period this year will most likely be held from the first Monday of September until the third Friday, but this has not yet been finalized.
ウクライナの教育改革の関係で年間スケジュールやカリキュラムは毎年変更が加えられておりますので、本学のサマースクール以外の期間に訪問を考える際には、日程確認をした方がよいでしょう。 / Due to educational reform in Ukraine, the academic calendar and curriculum are changing every year, so to anyone thinking of visiting outside of the TUFS Summer School period, it is important to doublecheck the L’viv academic calendar.


2017年12月 活動日誌 / December 2017 Activity Report

2018年1月5日 / January 5, 2018
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ大学の日常③】 / 【Everyday Life at L’viv University】
12月はしばしば雪が降りました。ただ、湿度の関係か、同じ気温であれば東京の方が寒く感じます。ウクライナの冬の本番は年明け以降です。/ December was full of frequent snowfall. However, due to the level of humidity, I think this same temperature in Tokyo actually feels colder. Real winter in Ukraine begins after the New Year.
9月に学年が始まるリヴィウ大学では、12月前半に前期の授業が終わります。その後、試験期間があって冬休みになります。ウクライナでは、試験が3種類あります。一つは小テスト的なもので、コントローリナ・ロボータと呼ばれます。一方、12月に最初に行われる試験はザーリクと呼ばれるもので、これは合格か不合格かだけです。その後にあるのが本格的な試験(イースペィト)で、合否だけでなく点数がつきます。最低評価をもらった場合、退学となります(その前に何度か追試が受けられるなど、救済措置があります)。留年という制度は通常ありません。試験は、筆記だけでなく口頭のものも多いのが、日本の大学の試験と比べた場合の特徴と言えるでしょう。/ The school year begins in September at L’viv University, and so the first semester classes end in early December. After that, there is the examination period, and then the winter break begins. In Ukraine, there are three types of tests. One type is similar to a pop quiz or a quick test, and is called コントローリナ・ロボータ. Then, in the beginning of December, there are ザーリク, which are tests you can only pass or fail. The third type of test is called イースペィト, and is a standard points-based examination. If a student receives the worst score, they can be expelled (however there are measures in place to help these students such as supplementary examinations). There is no system in place for students to repeat a year. The examinations are not only written, but also oral, which I suppose is a strength of the Ukrainian system when compared to Japan.
ところで、大学予算の削減、インフレ、隣国による政治的圧力としての資源値上げなどの影響で光熱費が高騰しているのが原因だろうと思いますが、今年度はリヴィウ大学は省エネ、光熱費節約のため、後期の開始時期を遅らすという話があります。例年より2、3週間遅れて、2月末頃に始まるようです。と、1月初めの時点でまだはっきりわかっていないのですが。リヴィウ大学への訪問を考えている人は、ご注意下さい。冬休み中は大学は原則として完全閉鎖されていて、構内に入ることができません。/ In other news, L’viv University is considering delaying the starting date of the second semester to save energy and utilities. This is probably because of the sudden rise in utility expenses due to the reduction of the university budget, inflation, and resource price increase caused by political pressure from neighboring countries. It seems that the next semester will start at the end of February, 2-3 weeks later than usual. However, at this point, I’m still not sure what is happening. To anyone considering visiting L’viv University, please keep this in mind. As a rule, the university is completely closed throughout the winter break, so you can’t enter.

【コロメィーヤ市の日本イベント】 / 【Kolomyia Japan Event】
12月11日には、リヴィウ大学のオレスタ・ザブランナ先生とともに、隣のイワーノ=フランキーウシク州のコロメィーヤ市に出張してきました。これは、メィハーイロ・フルシェーウシケィイ記念コロメィーヤ・ギムナジウムと市教育委員会の招待によるもので、ギムナジウムと学校の生徒たちたちのための日本とリヴィウ大学の日本語専攻を紹介するイベントを行いました。ちょうど前日には、「日本の日」というイベントが開催されたそうですが(https://www.facebook.com/events/512904105760771/)、こちらには呼ばれていないので参加していません。我々のイベントに来てくれた人が、昨日こういうイベントがあったと教えてくれました。映画を見たり、折り紙を折ったり、料理を作ったりしたそうです。どちらも、日本国大使館の制定した「ウクライナにおける日本年」に因んで催されたイベントで、奇しくもこの2日間はコロメィーヤ市は日本で盛り上がったようです。 / On the 11th of December, I went together with Professor Oresta Zaburanna to the city of Kolomyia in the neighboring Ivano-Frankivsk province. The two of us were invited by the Kolomyia Mykhailo Hrushevsky Gymnasium and the Kolomyia Board of Education to give a presentation on Japan and the Japanese department at L’viv University. Just one day before this, Kolomyia celebrated a ‘Japan Day’ (https://www.facebook.com/events/512904105760771/), but since we weren’t called for this event we didn’t participate. People that came to see our presentation told us about it. It seems the day was celebrated by watching Japanese movies, doing origami, and making Japanese food. Both the Japan Day and our presentation were organized by the Japanese embassy in Ukraine as part of the ‘Year of Japan’ project, and it seems that Kolomyia enjoyed two-day Japan experience.
我々のイベントでは、日本の学校の様子について話をしました。それから生徒たちの質問を受けたのですが、ありきたりな質問でなく幅広い分野から具体的で細かい質問が多く出され、参加してくれた皆が日本に大いに興味を持っているということが伺われました。/ At our presentation, we talked about Japanese schools and education. Afterwards we held a question and answer session, and many participants asked specific and detailed questions on a range of topics, as opposed to the general questions we were expecting. This made me feel that they were very interested in Japan.

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我々の歓迎として、折り紙を作って飾ってくれていました。/ We were welcomed with origami.

【コロメィーヤ】/ 【Kolomyia】
コロメィーヤはリヴィウよりも古い町で、その歴史と文化的水準とによって今日では「西ウクライナ第二の都市」と称しています(但し、人口の面では2017年11月1日付の統計で61018人で、州内で3番目となっています)。その名が歴史上に登場するのは1241年のことで、ハンガリーなど南方からの侵略を防ぐハーレィチ公国の要塞として建設されました。その後、20世紀までのあいだにルーシ王国、ポーランド王国、オーストリア=ハンガリー帝国の支配を受けました。/ Kolomyia is a city even older than L’viv, and as proof of this historical and cultural standard, Kolomyia calls itself ‘the second biggest city of Western Ukraine’ (even though it is technically the third with a population of 61,018 as of November 1st 2017). The name of the city first appeared in 1241, as Kolomyia was a stronghold built by the Principality of Halych to protect against invasions from Hungary and the south. After that, Kolomyia was ruled by the Kievan Rus’, the Kingdom of Poland, and then the Austro-Hungarian Empire.
今回伺ったコロメィーヤ・ギムナジウム(http://www.kolgym.if.ua/)は早くからウクライナ語による教育を始めた歴史ある教育機関で、この地方出身の代表的作家であるワセィーリ・ステファーネィク(1871–1936)や、イワーン・フランコーの息子で教育者、独立戦争時の飛行隊隊長、スカウト組織「プラースト」の共同組織者としても知られるペトロー・フランコー(1890–1941)、歌『2つの色』で知られる(中井和夫『ウクライナ語入門』大学書林、1991年、112–113頁に掲載)現代ウクライナの詩人ドメィトロー・パウレィーチュコ(1929生)ら多くの著名人がこの学校で学びました。ギムナジウムでは、伝統に従って我々をバイオリンによる地元の音楽の演奏で迎えてくれました。 / The Kolomyia Gymnasium that we visited (http://www.kolgym.if.ua/) was one of the earlier educational institutions in Ukraine to give instruction in Ukrainian, and boasts many famous graduates such as Vasyl Stefanyk (Ukrainian writer, 1871-1936), Petro Franko (son of Ivan Franko, military leader, and educator, 1890-1941), and Dmytro Pavlychko (poet, born 1991, his poem ‘two colors’is featured in the textbook ukurainago nyuumon by Kazuo Nakai, 1991, pp. 112-113). At the gymnasium, we were greeted with traditionally with a violin performance of local music.

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ギムナジウム門脇にある、ウクライナの復活祭の彩色卵(ペィーサンカ)の像。コロメィーヤはこの卵で有名。/ In the entrance to the gymnasium there was a statue of a pysanka, a Ukrainian Easter egg. Kolomyia is famous for its pysanka.
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コロメィーヤ市街の建物(第一子供音楽学校校舎)/ A street in Kolomyia (a school building of the 1st Kolomyia Children’s Music School).

2017年11月 活動日誌 / November 2017 Activity Report

2017年12月5日 / December 5, 2017
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ大学の日常②】/【Everyday Life at L’viv University】

さて、リヴィウは雪も降って、底冷えするようになりました。カラスとカササギが、雪の中でも枯れた木々のあいだを元気に飛び回って餌を探しています。バシュラールという哲学者が暖炉のゆらめく焔を巡る様々な話を書いていますが、残念ながら当方にありますのはガス暖炉、風情も思想も吹っ飛ばす猛烈なガス噴射がジェット機に乗っているかのような音を轟かせ、青い焔を吹き出しています。光熱費もふっ飛ばしてくれるとよいのですが。
動植物にとっても厳しい季節となりましたが、人間にとっても厳しいことに変わりはありません。学生たちには病欠が増え、コーディネーターも大概風邪を引いていますが、今のところ授業支援を行っています。/At L’viv it has started to snow and has gotten quite cold. Crows and Magpies, undeterred by the snow, play cheerfully among the dead trees, searching for food. The philosopher Bachelard has written many accounts of the romantic flickering flames in the fireplace, but what we have here are only gas stoves, which spit blue flames in fiery eruptions as loud as jet engines, effectively blowing away any trace of contemplation or sentiment that there could have been. I wish the gas stoves could blow away the utility costs in the same way. It is a hard season for animals and plants alike, but it is also a hard time for people. More students than usual are off sick and most of the coordinators have caught colds, but for now they are still on duty, providing class support.
先日の2年生の授業では、学生たちの家族について話をしました。すると、みんな4人家族で、大半の学生の弟が空手をやっているということがわかりました。空手はウクライナで随分人気のようです。本人たちはというと、誰もやっていないそうです。こちらも4人家族で、妹が空手をやっていたことがあり、例に漏れず自分ではやっておりませんので、なんとも奇遇です。学生たちの中には、お父さんが主夫という学生がいたり、学業のため親元を離れて姉妹だけで暮らしているという学生もいました。ウクライナの流行と、多用な家族模様を垣間見ることができたように思います。/In the sophomore class the other day, we talked with the students about their families. We found out that they all belong to four-person households, and that many of the students’ younger brothers do karate. Karate is apparently quite popular in Ukraine. However none of the students themselves does Karate. It was a strange coincidence- I also belong to a four-person family, and my younger sister has done Karate before, but like the students I myself have never done it. Among the students there was one whose father was a stay-at-home dad, and there was also a student who lived alone with her sister; both having left their hometown in order to further their studies. I was afforded the opportunity to take a glimpse of Ukrainian social trends, and to be exposed to the many different kinds of households found here.
12月は本格的な冬に向けて気候が厳しくなる時期ですが、最近は病気以外にも、いや学生にとってはむしろ病気以上の大敵かもしれない試験なるものが待ち構えておりまして、学生たちの中にはどうも顔色の優れない人がちらほらおります。12月初めには日本語能力試験があり、そのあとは大学の定期試験が山ほどあります。11月は試験前の前期最後の平常月でした。/In December the weather becomes increasingly harsh as Ukraine heads deeper into winter, but for the students the true enemy is not the illnesses brought on by the cold, but the exams they face. Several students do not look well. The onslaught of exams begins with the Japanese Language Proficiency Test in early December and is followed by a multitude of regular university exams at the end of the semester. November was the last regular month before exams.


2017年10月 活動日誌 / October 2017 Activity Report

2017年11月5日 / November 5, 2017
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ大学の日常】/【Everyday Life at L’viv University】
今月は、概ね日常的な授業期間であったと言えるでしょう。/As for L’viv University students, you could say that this month was generally occupied by classes on a daily basis.
リヴィウ大学の日本語専攻の学生には、毎日たくさんの授業があります。選択科目は少なく、多くは必修であると言っています。授業時間は、朝8時半から21時まで、8時間目まで設定されています。彼らはまた、日本語や日本文学だけでなく、文学部の学生に必修となっているウクライナ語の科目も履修しなければなりません。自分の国のことを知らずして、遠い外国のことだけ知ってなんとする、というわけです。/Students majoring in Japanese here at L’viv University take many classes every day. I’ve been told that majority of these are compulsory subjects, with few elective subjects on offer. The class schedule is made up of eight periods, and so classes start at 08:30, and finish at 21:00. The Japanese major students not only have to take Japanese Language and Japanese Literature, but must also take subjects that are compulsory for all literature department students, such as Ukrainian. This is so students learn about their own country, instead of only focusing on some far away foreign land.
各学年ごとに担任の先生がいて、日本語の授業は担任の先生が受け持つことが多いです。それ以外に、日本文学の授業や教授法の授業があり、歴史の授業も少しだけあるようです(文学部、歴史学部、哲学部等はそれぞれ独立した別の学部です)。日本人の教師がいる場合、学生たちは会話をやりたがります。しかし、おしゃべりだけで時間を潰すのはよくないので、作文や筆記、講読などの授業をしています。会話は、そのなかで学べるでしょう。/For each year-group there is a Dean, and a lot of the time this Dean is also in charge of the Japanese classes. Aside from that there are also a few classes on Japanese literature, teaching methods, and history (despite the literature, history, and philosophy departments being separate departments). When there is a native Japanese speaker in the class, the students always want to practice their conversation skills. However, it’s not very good to waste class time on conversation alone, so I focus on supporting them with writing and reading skills. I think they will pick up conversation skills through this anyway.
学生たちを苦しめるのは、試験ですね。ウクライナの試験期間はとても長く、1ヶ月ほども続きます。試験形式は口述、つまり面接が多く、朝から晩までかかることもあります。/The one thing that causes the students stress is, of course, exams. The examination period in Ukraine is very long, lasting for about one month. Many of the exams are oral, in other words interviews, which sometimes last from morning to evening.
なかなか厳しい学生生活のように思われますが、真面目に勉強した学生は相当自由に日本語でコミュニケーションが取れるようになります。外大生も見習わなければなりませんね。リヴィウ近郊(鉄道で3時間程度)や遠い町から来ている学生も多いのですが、近郊の学生は週末には実家に帰る学生も少なくないようです。そのため、週末夕方の中距離列車は学生たちで賑わいます。列車で20時間以上もかかるような遠くから来ている学生は、長期休暇にしか帰省はできなそうです。ウクライナでは、家族を第一に考える人が多いと思います。/It may seem like a very intense student life, but the students who study seriously always become able to communicate in Japanese fairly well. I think TUFS students should learn from this example. There are many students who come from the suburbs of L’viv (up to three hours away by train), or from faraway towns, and so many of these students return home during the weekend. This means that the middle-distance evening trains are often bustling with students on the weekends. Students who come from towns over 20 hours away can usually only return home during the longer vacations. I think there are many people in Ukraine who put their family first.

【日本語弁論大会】/【Japanese Speech Competition】
今月は概ね日常的な授業期間だったのですが、1つだけ日本語の学生にとっては大きなイベントがありました。日本語弁論大会です。去年は初の地方開催としてリヴィウ大学で行われ、今年は首都キエフ(Kyiv)に戻っての開催となりました。リヴィウ大学からは、2名の学生(Iryna Maksymetsさん、Anastasiya Luhovaさん)が参加しました。/While this month was a fairly normal one, there was one big event for the students of the Japanese department. This event was the ‘Japanese Speech Competition.’ Last year was the first year the competition was held locally, here at L’viv University, but this year the event returned to being held in the capital of Ukraine, Kyiv. Two students from L’viv University, Iryna Maksymets and Anastasiya Luhova, participated in the competition.
我々はこの日のために何度も練習やリハーサルと繰り返してきたのですが、練習しているうちにコーディネーターも日本語の発音がわからなくなる有様で、つくづく日本語のイントネーションというのは難しいなあと感じた次第です。/We practiced and rehearsed many times for this day, but the students’ pronunciation during the practices was in a condition where the coordinators couldn’t understand what was being said, and so I deeply felt how difficult Japanese intonation is.
引率のオーリャ先生の話では、両名ともスピーチ、質疑応答ともによくできていたとのことでしたが、当人たちに聞いたら自分に対しては辛口の評価をしていました。結果は、アナスターシヤさんが特別賞を受賞しました。/According to Professor Olya, both of the students did well in their speeches and Q&A sessions, but when I asked the students themselves they were very critical of themselves.
なお、本大会の直前、ウクライナ東部の都市ハールキウ(Kharkiv)で愚かな「カーチェイス」の末の大事故がありました。車が歩道へ高速で突っ込んだ結果、多数の死傷者が出る悲惨な事故となり、そのなかに亡くなった親子がいたのですが、その方は日本語弁論大会への参加予定者だったとのことです。ご冥福をお祈り致します。/Furthermore, just before this competition there was a major incident after a car chase in Kharkiv, a city in eastern Ukraine. In a truly tragic turn of events, a car sped onto the sidewalk, causing many casualties. Among the deceased was a parent and child on their way to participate in the ‘Japanese Speech Competition.’ My deepest condolences go to the affected families.


2017年9月 活動日誌 / September 2017 Activity Report

2017年10月5日 / October 5, 2017
GJOコーディネーター / GJO Coordinator
原 真咲 / Masaki Hara

【リヴィウ大学にGlobal Japan Officeが開所しました!】/【Global Japan Office Opens at L’viv University!】
今月、世界で13箇所目となるグローバル・ジャパン・オフィスが、イヴァン・フランコ記念リヴィウ国立大学に開設されました。2017年9月14日には開所式が執り行われ、東京外国語大学からは早津惠美子先生、前田和泉先生、福嶋千穂先生がお越しになり、リヴィウ大学からは副学長のマリーヤ・ズブレィーツィカ先生、文学部長のスウャトスラーウ・ペィレィプチューク先生、東洋学科長代行のオレスタ・ザブランナ先生をはじめとする先生方や学生たちが参加されました。また、本学からの留学生3名、そのほか来賓の皆様もご参加下さいました。/This month, the 13th Global Japan Office was established here at the Ivan Franko National University of L’viv. The opening ceremony was held on the 14th of September 2017, and attended by Professor Emiko Hayatsu, Professor Izumi Maeda, and Professor Chiho Fukushima from TUFS, and many students and faculty from L’viv University including the Vice-rector, Mariya Zubrytska, the Dean of the Faculty of Philology, Svyatoslav Pylypchuk, and the acting head of Oriental Studies, Oresta Zaburanna. Three exchange students from TUFS, and other guests were also in attendance.

また、今年は最初の近代ウクライナ国家樹立からちょうど100周年の節目であるとともに、日宇国交樹立25周年の記念すべき年であり、これに合わせて在ウクライナ日本国大使館は「ウクライナにおける日本年」を設定しています。開所式は、この「ウクライナにおける日本年」事業に認定を受けています。/Also, since this year marks the 100th anniversary of Ukrainian Independence, and is also the 25th anniversary of Japan-Ukraine relations, the Japanese embassy in Ukraine has organised a ‘Year of Japan.’ This ceremony was recognised by the ‘Year of Japan’ project.
開所式に先立ち、早津先生による記念講義『単語の意味と文法的な性質―語彙的な意味・文法的な意味・カテゴリカルな意味―』が行われました。2年生から修士課程の学生まで、大勢の日本語専攻の学生が聴講しました。普段、日本の日本語専門家と触れ合う機会の乏しいリヴィウ大学の学生たちにとっては、本場の日本語学の講義を受け、専門家に自ら質問するという貴重な体験となりました。いつもの教室で、いつもと違う講義を聴く学生たちは、一段と生き生きとしていたように思われました。/Before the opening ceremony, Professor Hayatsu held a commemorative lecture titled ‘The Meaning of Words and their Grammatical Properties: Lexical Meaning, Grammatical Meaning, and Categorical Meaning.’ Ranging from 2nd year undergraduate students to master’s students, many students from the Japanese department attended the lecture. This lecture was a valuable experience for L’viv University students, as they were able to take a class in Japanese, and usually have little opportunity to learn from and talk with Japanese specialists. The students seemed to be very excited to experience something different in the classrooms they always learn in.
開所式では、日本語専攻の修士課程で学んでいる2人の学生が司会を務めてくれました。2人とも、この日のためにヴィシワーンカという素敵な晴れ着を着てきてくれました。また、同じく修士課程で学んでいる学生(彼もヴィシワーンカです)がバイオリンによる素晴らしい演奏を披露してくれました。曲目は宮城道雄作曲の『春の海』です。早津先生、ズブレィーツィカ先生、ペィレィプチューク先生の祝辞がありました。ズブレィーツィカ先生の言葉によると、ウクライナ最古の大学であるリヴィウ大学に、最初のオフィスが開かれることは大変意義深いことである、とのことです(リヴィウ大学は1658年にウクライナとポーランド・リトアニア間に結ばれたハーデャチ合意に基づき、1661年に開校しました。ウクライナにはこれ以前にもオストローフやキエフに高等教育機関がありましたが、今日まで断絶せずに続いているのはリヴィウ大学が最古です)。/At the ceremony, two Master’s students from the Japanese department acted as presenters. Both of the students wore traditional vyshyvanka especially for the event. There was also a wonderful violin performance by another Master’s student (who was also wearing a vyshyvanka). He played Michio Miyagi’s ‘The Sea in Spring.’ Congratulatory addresses were given by Professor Hayatsu, Professor Zubrytska, and Professor Pylypchuk. According to Professor Zubrytska, opening a new office in L’viv University, the oldest university in Ukraine, is a very significant thing. (L’viv University was founded in 1661 after the signing of the Treaty of Hadiach between Ukraine and the Polish-Lithuanian Commonwealth in 1658. While there are other educational institutions with longer histories such as Ostroh Academy and the Kyiv-Mohla Academy, L’viv University is the oldest university that has been operating continuously).

記念品の交換が行われたあと、学生たちから、東京外国語大学歌を歌うというサプライズがありました。我々とリヴィウ大学の学生たちは、この日のために秘密裏に練習を積んできたのです! 学生たちは少し緊張していましたが、本学の先生方に喜んでいただけたものと思います。伴奏はワセィーリさんのバイオリンの生演奏で、この日の大学歌は朝日町でも聴くことのできない素晴らしいバージョンではなかったでしょうか。その後、全員でリヴィウ大学の学生歌『ガウデアームス』を歌って式を終えました。/After exchanging gifts, the students surprised everyone by performing the TUFS school song. We secretly practiced this with the L’viv University students especially for this day! The students were a little nervous, but I think the teachers from TUFS were very pleased. One of the students played the accompaniment on violin, making it a unique version of the song that perhaps cannot be heard elsewhere, even in Asahi-cho. After this, everyone sang L’viv University’s school song, ‘Gaudeamus,’ and the ceremony came to an end.
なお、開所式については本学ホームページ(http://www.tufs.ac.jp/topics/gjo.html)のほか、リヴィウ大学のホームページでも記事が公開されており、多数の写真も掲載されています(http://www.lnu.edu.ua/en/a-representation-of-the-tokyo-university-of-foreign-studies-was-opened-at-lviv-university/, http://www.lnu.edu.ua/gallery/u-lvivskomu-universyteti-vidkryly-predstavnytstvo-tokijskoho-universytetu-inozemnyh-mov/)。
オフィスは、文学部ヤロスラーウ・ダシュケーヴィチ教授記念東洋学科日本語専攻の管理する教室に設置されています。そのため、普段は日本語の授業に活用されており、事務的な雰囲気のオフィスというよりは学生たちの活動の場となっています。/More information on this opening ceremony can be found on the TUFS homepage, (http://www.tufs.ac.jp/english/2017/10/tufs-171016ukrainegjo.html), and also on the L’viv University official website(http://www.lnu.edu.ua/en/a-representation-of-the-tokyo-university-of-foreign-studies-was-opened-at-lviv-university/http://www.lnu.edu.ua/gallery/u-lvivskomu-universyteti-vidkryly-predstavnytstvo-tokijskoho-universytetu-inozemnyh-mov/). The GJO office has been established in a classroom managed by the Ya. Dashkevych Department of Oriental Studies. Because of this, Japanese classes are also held in the office, giving it more of a classroom feel than an office vibe.

【東京外国語大学から留学生がやって来ました!】/【Exchange Students From TUFS Have Arrived!】
今月のもう一つの重要なイベントは、東京外国語大学から初めての留学生が来たことです。記念すべき第1期生は、現在修士論文に取り組んでいる井伊裕子さん、学部でロシア語を学んでいる2年生の洲鎌里南さん、同じく1年生の田中春菜さんです。皆それぞれに異なる興味を持ってリヴィウを訪れたことと思いますが、充実した3週間を過ごすことができたことと思います。リヴィウ大学の先生やボランティアの方々がいろいろ考えてくれて、ウクライナ語の授業だけでなく、文化や歴史の講義、巻き人形作りやボルシチ作りのマスタークラス、ハレィチナー青少年創作センターのイベントの見学を提供してくれました。また、リヴィウ大学の学生たちも街の案内をしてくれました。/Another important thing that happened this month was the arrival of the first exchange students from TUFS. These students are Yuko Ii, who is currently working hard on her Master’s thesis, Rina Sugama, a second year undergraduate student studying Russian, and Haruna Tanaka, a first year student also studying Russian. The students all came to L’viv for different reasons, but I think they were able to make the most of the three weeks they spent here. The teachers of L’viv University and a few volunteers helped us think of what to do with the students, and as a result the students were able to not only take Ukrainian classes, but also participate in culture and history lectures, Ukrainian doll-making (motanka) and Borscht (Ukrainian soup) master classes, and an event at the Centre for Culture and Creativity for Children and Youth in Halychyna. Students from Lviv University also showed the TUFS students around the city.
楽しい留学・出張期間はあっという間に過ぎてしまい、9月後半には先生、留学生が徐々に帰国してリヴィウも随分寂しくなりました。ところで、今回の一連のイベントのお蔭もあり、9月中頃のリヴィウの日本人人口は史上稀に見る増減を記録したことと思います。思えば、リヴィウにあるヤポーンシカ通り(つまり日本通り)にでも皆で行けばよかったかもしれません(この通りは、日露戦争における日本の勝利を記念して命名されています)。/The exchange came to an end in the blink of an eye, so the exchange students and visiting teachers returned home, making L’viv lonely again. Incidentally, and no doubt thanks to this series of events, the Japanese population of L’viv experienced the rarest fluctuation in history during mid-September. Now that I think about it, it may have been a good idea to go to L’viv’s Yaponska Street (Japan Street) with everyone (this street was named to commemorate Japan’s victory in the Russo-Japanese War).

【本の市場】/【Book Market】
9月13~17日、リヴィウ大学のすぐ近くのポトツキ館とリヴィウ芸術館を主会場に、第24回出版社フォーラムが開催されました(http://bookforum.ua/)。ウクライナ全国の大小の出版社と、隣国ベラルーシやポーランドの出版社数社が出品しました。本学の先生や留学生も見学し、何かおもしろそうな本を購入したようです。この催しでは、普段リヴィウでは入手困難な地方の出版社の本が購入できたり、普段買える本でもより安く買うことができたりするので、本好きの人は両手に山ほど本を抱えて帰っていきます。そんなに買わなくても、あれほど多くの新品のウクライナ語の本が並んでいるのを見ると、ちょっと感動します。もしこの時期にリヴィウに来ることがありましたら、一度覗いてみるとよいでしょう。/From the 13th-17th of September, the 24th Annual Publisher’s Forum was held at the Potocki Palace and the L’viv Art Palace (http://bookforum.ua/). Exhibits were held by publishing companies big and small from all over Ukraine, and from neighboring countries Belarus and Poland. Students and teachers from TUFS attended the exhibition, and acquired some interesting books. At this event, not only could you find books that are usually hard to get in L’viv, but you could also buy books at a much lower price than usual, so book-lovers left with mountains of books tucked under each of their arms. Even if you don’t buy much, seeing that many new books all written in Ukrainian is a truly moving experience. If you ever come to L’viv around this time of the year, I think it is worth taking a look.